生活のほとんどの時間を費やす職場において、安心感というのは重要な要素になります。 とはいえ、現在ではそれに同調できる資質と染められる覚悟がある若者も減って来ていますし、派遣などの非正規雇用も増え、この同質性の期待は「普通」でも「常識」でもなくなりつつあるようです。 

働くことにおいて、「適応の期待」と「態度の期待」、「同質性の期待」が指摘できます。これらはどれをとっても、業務として教えられるものではなく、言葉でいちいち教えるものでもなく、マニュアルにも載っていません。職場の人間関係の中で、やりとりや力関係として、またいろいろ失敗しながら覚えていくことです。

それはその職場に応じ、自分を変容させていくことでもあります。これは個別の事象で考えると、他者への期待です。新入社員の君、一緒に働くあなたへの期待です。期待というのは応えてくれる人があって、はじめて成り立つものです。

『甘えの構造』(土井健郎、昭和46年)を出すまでもなく、日本人のメンタリティとして意識下の要求を期待できる人間関係というのを前提としているのかもしれないくらい、一国の政治の世界ですら忖度というのがあるくらいですから、この目に見えない他者への期待が当然のことになっているのかもしれません。 

ここで問題となってくるのは、この期待が裏切られるということです。発達障害の傾向がある人は、場の雰囲気を読むのが苦手ですから、言葉で教えてもらう以上のことを、身を持って察知するというのが上手くありません。そのため、先のエピソードのようなことが起こります。現在は、「同質性の期待」以上に、空気を読むこと、気持ちを察知することが、非常に繊細になっているように感じます。

微に入り細に入り気にする人や過剰に反応、適応する人もあり、センシティブになってきているきらいがありますが、反面、発達障害の傾向がある人のようにその期待を感じられない、答えられない、受ける側としては裏切られる状況が生じてくるという相反する方向に増長されています。