しかし、高校で成果を出したことで、大学も再び特待生としての入学となりました。大学の練習は高校時代以上に苦しく、同じ特待生として入学してくる学生は全国からのツワモノ揃いでした。

故郷では両親と一緒の生活だった私にとって、寮生活と大学の授業と完全なる部活動中心の生活から逃げる場所はなく、また逃げるわけにもいかず、「学校の名誉のために走る特待生」としての4年間が始まりました。

当然、その毎日は予想を超えた苦しい日々。毎日、4年後に引退する日を想像する日々が続きました。

2年生になったある時、練習メニューに初めてイメージトレーニングが取り入れられました。大会当日、自分が会場に着いた時からをイメージする。そして、ウォーミングアップ後のスタート地点に立つ自分を細かくイメージする。体を冷やさないようにするためにスタート地点で何をやるか、全ての工程の中で自分をリアルにイメージすることや、試合自体を自分が主役の映画を作るようにイメージする癖がいつの間にか身に付いて、その時の全国大会800m走で優勝。3年生でも1500m走で全国優勝することができました。


その結果、「負けられない」という重圧となって、私にのし掛かりました。

毎日の練習に気合が入らず、日本一を果たしたことで、目標を失ったような気分でした。そんな重圧の中、関東インターカレッジで1500m走のレースを迎えました。いつものようにイメージトレーニング通り、トップのポジションをキープして走っていた時です。あと一周というところで、急に不安に襲われました。練習不足が原因で、後続者に次々と抜かれてしまったのです。

前年の優勝という重圧とプライドに負けた私に、

「このレースをやめよう。倒れるなら今だ」

という思いが膨らみました。

とうとう意識がありながらも、わざと倒れました。

私は情けなさでいっぱいでした。


救護隊が駆けつけてきて私を担架で運びながら、倒れている私の鼻先で気付けのアンモニアカプセルを潰しました。それでも気絶の振りを続ける私は、「なんて、ぶざまなことをしたのだろう」と深く思いました。

「私は逃げた。しかし、このことは誰も知らないことだ。前年度の優勝者は体調不良だったから、仕方がなかったのだ」と、自分に言い聞かせました。

しばらくして、担架に乗せられた私に、「おい、こんなこと二度とするな!!」と言う人がいました。
私のしたことを見抜いた監督でした。


こんな状況を誰が救ってくれるでしょうか? 
逃げて、退学して実家に帰るのか?


しかし、その状況を救うのは自分しかいない、と強く感じました。


そう思った翌日から、自分自身を救うために自分だけの秘密練習を始めました。雨でも、嵐の中でも、休日返上で一人早朝から公園まで走り、自主練習を数か月間積みました。その結果、その年の秋、全日本インターカレッジで優勝し、自分の弱さを自分自身で雪辱することができたのです。

 

 
※本記事は、2020年12月刊行の書籍『きょうは着物にウエスタンブーツ履いて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。