一般社団法人『Tradition JAPAN』代表で、着物活性プロデューサーである矢作千鶴子氏の書籍『きょうは着物にウエスタンブーツ履いて』より一部を抜粋し、日本の重要な財産である「着物」について考察していきます。

困難に必死で立ち向かえるのは「自分」だけだ

逃げたくなるような事態に遭遇した時、それを解決してくれるのは自分だけです。それは自分こそが人生の主役だからです。


私は、昭和41年から53年まで陸上競技と共に過ごしました。小学生の頃、体力測定や運動会で俊足だった私は地区の大会に選ばれ、部活のような放課後を過ごしていました。

隣にあった建物の中学校には、やはり俊足だった3歳年上の兄がいて、県内でも強豪といわれていた野球部員でありながら、陸上部員としても活躍していました。

放課後のグラウンドは中学校の野球部と陸上部が独占していて、隅っこで練習するしかない小学生の私でしたが、兄が走っている姿をいつも誇らしく見ていました。部活ができる放課後が楽しくて仕方ありませんでした。

農道から山の麓あたりまで走ると、まばらに見える残雪に、もうすぐ雪から解放される春がやってくる喜びを感じ、夏の畦道には枝豆の緑色や、いろいろなトンボたちの乱舞する姿とセミの声、秋になると日暮れが早くなって、走る影の長さに寂しさを感じ、部活と一緒に過ごす明るい思い出の日々でした。

どうしたら強く速くなるのか考えもせず、景色を見ながら楽しくのんびりと走っていた私でしたが、ある日、優秀な部員の先輩に付いて県大会に初めて行きました。各地域から勝ち上がった選手たちの熱気とオーラに圧倒されました。

大会後、その先輩に「僕が卒業したら、君が県大会で頑張ってくれ」と言われました。

やがて、走ることや跳ぶことが好きだった私に転機が訪れました。中学3年生の時に走り幅跳びで全国上位の記録を出し、県内で有名な選手になったのです。

当時、私がいた陸上部には、ピタリと踏み切りを合わせる助走路のテクニックや、スピードある助走路の走り方を教えてくれる指導者がいなかったので、好記録が出たのは奇跡でした。

その後、高校へは特待生として入学しました。しかし、ほとんど男子という環境の中、特待生という自分の立場に、入学直後から後悔の日々が始まりました。

文化祭も運動会も、お盆もお正月も入れて、練習が休みだったのはわずか2日間のみ。

唯一、中間テストと期末テストの期間だけは一週間前から練習がなかったので、学校行事の中で一番楽しみだったのはテスト期間という高校生活でした。

ただし、練習漬けの甲斐あって、小学校の頃の憧れだった県大会では走り幅跳びで優勝、200m走も準優勝、400m走では県高校新記録を作りました。

メンタル的な苦しさを乗り越える練習は、これでもかという走り込みによって積み上げられて、とうとう全国高等学校総合体育大会(インターハイ)への切符もつかみました。

インターハイに出場した種目は、一番過酷な400m走。予選は一位通過だったにもかかわらず、残念ながら準決勝は貧血のために決勝には残れず、高校生活での最後の試合となりました。