明治維新の中心地である東京の明治神宮の建立の際にも、大正天皇の裁可をいただいているのです。上意下達が徹底されていた時代に、国の一機関に過ぎず、日本の古いことがらに疎い朝鮮総督府の官吏が勝手に日本海を渡って、天照大御神と明治天皇を南山にお迎えすることなど、決められるはずがありませんでした。 このこともまた、大正天皇と皇族の方がたの許可をいただいて初めて実行される重要なものだったのです。

「雲太、和仁、京三」、平安時代の「口遊」に謡われた、当時の大建築物の大きさの順位。三番目の京都御所(平安京)大極殿、二番目の東大寺大仏殿をしのぐ、一番高い場所にあり、一番大きな建造物だった古代出雲大社。その伝承を疑うことなく取り入れて設計され、先に建立された明治神宮よりも、高い場所、大きな敷地を持っていた朝鮮神宮。 

平成12年(2000年)出雲大社の調査で、八足門前より御柱が発見され、巨大建造物が歴史的事実と確定する80年ほど前に、日本の歴史とともに生きる「天皇」が許可された、内鮮融和のための建造物でした。「お前も10月( 神無月)生まれだし、国が見合いをさせたと言っても、親父とお袋の縁も大国主命が結んだようなものだから、なにかと縁の深い神様に、二人あの世で揃ったときに参拝するのもよいもの」と、祖母千代子の死去後、先に眠る祖父靖国が待つ鳥取への納骨の際に、出雲大社に詣でた写真になります。

出雲大社にて母と私

このときに、朝鮮神宮が古代出雲大社の絵図面を参考にしていると、父が教えてくれました。また、なにか本殿を含めて、いろいろとほかの神社とは異なる仕掛けがあると、祖父から教えてもらった話を、手振りを交えてしてくれましたが、残念ながらその部分は失念してしまいました。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『受け継がれし日韓史の真実 ─朝鮮引揚者の記録と記憶』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。