大石が山科に帰着して直ぐの十二月十一日には、以前より吉良が公儀に申し出ていた自身の隠居が承認され吉良左兵衛が吉良家を相続している。この相続が意味することとは、今後吉良上野介には殿中松之廊下での刃傷事件に関する罪が及ばないことで、この情報は暮れも押し迫った十二月二十五日に山科の大石の元に届けられている。その頃、江戸の同志の間では隠居が許された吉良は来春早々にも米沢(山形県米沢市)に転居するのではないかとの憶測が飛び交う。

この時の米沢第五代城主上杉綱憲は吉良が上杉家に養子として差し出した実子綱憲で、吉良が米沢城内に転居することになれば仇討ちはほぼ不可能となる。それを念頭に年明け直ぐの一月十一日に京都で第一次山科会議が開催される。参加したのは在京の同志のなかでも大石に近いメンバーが主力だったことから、この会議においては浅野家再興を優先させ、当面浅野大学の閉門解除を見届ける事を決議するが、秋までは引き延ばさないとの条件に江戸急進派らは理解を示している。

一月中旬には昨年九月に江戸に派遣されて以降、急進派に同調していた原惣右衛門と大高源五が帰京し、大石と江戸急進派との間を取り持つことになるのだが、この頃から同志間に少しずつ齟齬が生じはじめる。二月十五日に第二次山科会議が開催されると、内匠頭の三回忌となる翌年の三月十四日を待つことを条件に、はじめて大石の口から復讐の意思が表明される。

この結果を受けて、再度江戸急進派鎮撫のために、大石が最も信頼している吉田忠左衛門と大石の信認の篤い近松勘六が江戸に派遣される。上方では、仇討ちより浅野家再興による再仕官の道を強く希望する者が目立ちはじめ、復讐一筋の江戸急進派との温度差がより一層顕在化する。

その一方で、江戸急進派のなかでも急先鋒として当初から仇討ちを強く唱えていた高田郡兵衛が自己都合で脱盟する。

四月に入ると、すでに同志らに復讐の意思を表明していた大石は、以前から親交のあった旧浅野家出入りの呉服商綿屋善右衛門と連れだって伊勢参りに興じている。その直後から大石は自らの意思表示を同志らに知らしめるべく身辺整理を始める。

先ずは妻との離縁状を岳父石束源五兵衛に送っている。長男の松之丞は暮れに元服し大石主税良金(おおいしちからよしかね)を名乗っており、その主税だけを山科に残し、四月中旬には身重の妻理玖と娘くうを妻の実家豊岡(兵庫県豊岡市)に帰している。

五月に大石は再び赤穂の遠林寺祐海を江戸に派遣し最期の主家再興活動に望みを託す。七月五日には豊岡で三男大三郎が無事誕生しており、お伊勢参りではおそらく大石は妻の安産と家族の安泰、さらには浅野家再興とそれが叶わなかった場合の仇討成就を祈願したものと考えられる。

この頃になると浪人生活も一年が過ぎ生活に困窮する同志が出始める。事を急ぎたい急進派とその時期をじっくり見極めたい大石との間に生じた隙間は徐々に拡がりを見せ、これ以上待ち切れないと判断した堀部ら急進派は大石と袂を分かち別働隊を結成することを決意する。

ところが江戸の急進派だけでは事を起こすのに人数不足であることから、上方の同志を取り入れるべく堀部安兵衛が密かに上京する。堀部は六月十八日に一人江戸を発ち二十九日に京都に到着するや、早速参勤交代で江戸在府時に気心の知れていた大高源五と会い「大石頼むに及ばず」として原惣右衛門を新たな頭領に担いで固く団結すべく、上方在住の同志を説いて廻っている。この時、水面下において赤穂浪士分裂の最大の危機が刻々と迫っていた。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。