再会

では、パングレアスの人々のことについて話そう。

昔から、この街の人々は皆おしなべて無邪気だった。ここのこういう気候が自然とそうさせるのだろうか、民族の伝統的な気質なのだろうか、はっきりとはわからないが、ともかくどの人においても、基本的に悪気というものはなくて、どんな事件も起こり得そうになかった。

この街の人々は、例えばその行為“自体”を行いたいためには熱中するというか、努力を惜しまない、いわゆる“凝り性”なところがあった。ある婦人はある朝どうしてもオレンジジュースが飲みたくなって、それもオレンジ絞り器で絞った新鮮なものを飲みたいと欲した。そこで彼女は街外れの雑貨屋までわざわざ出向いて行って、プラスチック製の絞り器を購入した。帰りに市場で新鮮なオレンジも購入した。そして夕方近くに家に戻ると、彼女はオレンジもその器械も台所の戸棚にしまい込んでしまった。

夜が明けたとき、彼女は満を持して、喜びでいっぱいになって、爽やかな風のなかで絞ったオレンジジュースの味を堪能したのだった。手絞りのオレンジジュースと共に彼女が求めたのは、一日の始まりの清らかな風だった。そしてその風を得るためには、新しい朝が来るのを待たなければならなかったのだ。

ある郵便局勤務の男性は、車に異常なほどの熱意を持っていた。革命後の経済封鎖のせいでアメリカの新車が一切入ってこなくなってから、車は非常な貴重品となっていたが、それをきっかけに、彼は車の手入れと修理にのめり込んだ。元々父親から譲られたフォード車を一台所有していた彼は、自分の車に夢中だった。

ほかの車マニアのキューバ人たちと一緒になって愛車のことをオンボロ車()と呼び、板金からホイールや内装まですべて、懇切丁寧に整備した。些細なエンジントラブルから排気系統、モーターの具合に至るまで、彼の手にかかって直らない故障はなかった。

彼はハバナにいるという名人に付いて、毎週週末になると教えを乞いに片道六時間をかけて通った。そうする内に、彼は最早手に入れることのできなくなったアメリカ製の部品を自らの手で作れるようにさえなった。ソ連製の大きなボルトを削って、フォードに合うボルトを完璧に作ることができるようになったのである。

――二十九歳になったとき、初めて彼はサラダのなかにある野菜のひとつひとつの味を知った。それまでは、メインである肉料理のオマケに過ぎず、何の頓着もせずいっしょくたに口のなかに放り込んで適当に咀嚼()し、そのカオス然とした味を麻痺した舌でぞんざいに混ぜくり返すだけだった野菜たちが、そのころから突然彼の口のなかで、鮮やかな自己主張を始めたのだ。

レタスはそのときどきのドレッシングと混じり合って、妙なる風味と歯ごたえ、それに少しの青臭さを感じさせた。瑞々しいトマトは、その香りは言うに及ばず、豊潤な水気と鋭い酸味で彼の舌の()(みらい)を震わせた。そして彼のもっともお気に入りの具材、缶詰のツナは、ドレッシングとからめる前と後ではまったく異なった味わいを提供するのだった。

そのほかにもベーコンやチキンなど、何か蛋白源となるものが彼のサラダには必要だった。彼はときにツナだけを食し、その基本となる匂いと食感をじっくりと味わった。そしてまた、レタスと共にフォークに突き刺したそれを、たっぷりとドレッシングにからめ、その混淆(こんこう)によるまったく別の効果に感銘を覚えるのだった。

十代のころからひどい歯槽膿漏に悩まされていた彼は、随分長いこと食物を噛みしめて味わうという習慣を失っていた。ところが、肉や魚に()んだとき、サラダを食べることによってまた別の刺激が彼の胃液分泌を促し、体が衰弱感から解放されることや、野菜の味がわかるようになって以来、長年悩まされてきた歯槽膿漏が少しずつ改善されてきたことに気づいてから、彼の食習慣はガラリと変わってしまった

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『スモーキー・ビーンズ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。