生命の崇高と人体構造の神秘を描き切る傑作。

ほぼ100日、約3カ月におよぶ正統解剖学実習。死者と向き合う日々のなかで、医学生たちの人生も揺れ動いていく。目の前に横たわる遺体(ライヘ)は何を語るのか。過去の、そして未来の死者たちへ捧ぐ、医療小説をお届けします。

第3章 上肢をはずす

頸神経と胸神経の内の5本の神経がアミダクジのように結合したり、枝分かれしたりして、上・中・下の3本の神経幹を作る。さらに、あと2回のアミダクジ的な枝分かれと結合をくりかえして、正中神経・尺骨神経・橈骨(とうこつ)神経・筋皮神経などになる。模式図ではそのように示してあるが、実際に確認しようとすると、結合組織などに包まれていて至難だった。

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おい、腕神経叢ってどうなってるのかな、結合組織を除いている内にぐちゃぐちゃになってしまったよ。担当していた高久が皆に意見を求めた。僕の方はかなり良い感じだよ、もう一方を担当している高尾。見ると入り組んだ神経叢が清掃、追跡され白く輝いている。

一方、高久のほうは結合組織が、海の海苔の養殖のように、まだ絡み付いている。そんなにおかしいならやってみてくれよ、こらえたつもりだったが、つい笑ったのを見抜かれて高久からそう言われてやってみると、なるほど、結合組織は神経に硬くまとわりついて、ピンセットで強く摘まもうとすると、神経も摘まんで傷つけそうになる。

よく見ると既に神経の表面は傷だらけだ。海岸に打ち捨てられた使い古しの網のようだった。

余計ひどくなったじゃないか、高久が勝ち誇ったように言った。もともとが間違ってたから、訂正のしようがなかったのさ。そう言い返そうとした時、高本教授がそばを通りかかった。ちらっと我々の出来具合を見て、苦しそうに微笑み、丁寧にやってくださいよ、私もいずれ献体するので、天国で嫌だなと思わないような実習にしてくださいよ。そう言って去って行かれた。

上腕の三つの主な屈筋を確認する。各人勝手に筋肉が適当についているのではない。上腕二頭筋、烏口腕筋、上腕筋という位置も形も決まった筋肉が誰もに共通している。

この身体の構造が事細かく、種によって厳密に共通しているという事実は、恥ずかしい話だが、医学部へ入り、実際に解剖の授業に接するまで知らなかった。筋肉や血管は発生、成長する時、適当に出来上がるのだろうというぐらいに思っていた。

子供の時の授業で、心臓が少し左に有るとか、胃は左から右へ傾いているとか、内臓について習った時、特に疑問も感動もなかったが、よく考えてみるとすごい事なのだと気付いた。自分が予想していたより遥かに、厳密に人体は構造が一致、共通しているという事実は、人間の平等性の一つの根拠となりうるだろうか。

皮膚の色や顔かたち、目鼻立ちは異なるけれども、もっと深い所で人間は共通している……勿論脳もそうだろう。だとすると、考え方や精神も共通な部分が多いのだろうか。個性とは何だろうか、人格とは何だろうか。ふと、そんな事を考えていると、肩を突かれて我に返った。

ぼんやりしてないで先へ進もう、高尾が無機的に言った。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『正統解剖』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。