浅野家再興運動と仇討ち

山科の地に落ち着いた大石は絶望的とみられていた浅野家再興に執念を燃やす。

浅野家代々の祈願所であった遠林寺前住職で京都普門院の住職義山が、徳川家が深く帰依していた護持院(千代田区神田錦町)の快意僧正と懇意の関係にあったことから、大石は普門院を通して護持院から幕府をも動かそうと画策する。また、開城直後の残務処理で赤穂滞在中の五月二十日には遠林寺住職祐海を江戸に遣わし、それ以前にも、京都の智積院の隠居僧正に依頼するなど浅野家再興運動を積極的に展開している。

七月に入り開城時に大石から主家再興を三度嘆願され、大石の熱い思いに理解を示していた収城目付から老中や若年寄も浅野家再興に好意的であるとの報告を受け、その可能性に縋りたい一心の大石は旧浅野家京都留守居役小野寺十内を随え、江戸から戻ったばかりの内匠頭の従兄弟美濃大垣城主戸田采女正を訪ね主家再興を懇願している。

その一方で、吉良は遡る三月二十六日に自ら願い出て高家肝煎の職を辞しており、九月三日には呉服橋の屋敷を幕府へ返上し本所(東京都墨田区両国)へと屋敷替えをしている。

その頃、赤穂において一度は大石の考えに随ったはずの堀部安兵衛ら江戸急進派の面々が、江戸に戻るや再び主君の仇討ち一筋に突き進む活動を活発化させ、再三大石に書簡をもって仇討ち決行を強く促してくる。その黒幕は堀部安兵衛の義父堀部弥兵衛であった。

大石は堀部らとの往復書簡で事を急がぬよう強く制止するも、両者の考えや対応の相違が日に日に顕在化し、江戸急進派が仇討ち一筋に進むことを憂いた大石は、九月下旬に側近で江戸在府の経験がある原惣右衛門を江戸に派遣し急進派の鎮撫化を図っている。ところが説得が難航するとみるや、遂に大石自らが直接説得に乗り出すこととなり、十一月三日に大石は奥野将監、河村伝兵衛、岡本次郎左衛門、中村清右衛門ら側近四名を引き連れ江戸入りしている。

十一月十日、大石等が宿泊する旧浅野家日雇頭前川忠太夫屋敷(港区芝)に江戸の同志ら十五名(大石を含む)を集め会合が開かれている。この会合では急進派に押し切られたのか、翌年三月に期限を切って仇討ち決行が申し合わされている。

江戸に滞在していた僅かの間に大石は主家再興運動を積極的に展開する。日時は不明であるが、開城時の収城目付荒木・榊原両旗本の屋敷を訪問し、赤穂開城の際の御礼と共にあらためて浅野家再興への助力をお願いし、宗家広島城主浅野安芸守綱長、旧赤穂浅野家の分家浅野美濃守長武、同浅野左兵衛長恒を訪問し主家再興への力添えを依頼している。更に大石は赤坂の備後三次城主浅野土佐守邸を訪問し内匠頭室瑶泉院と対面している。

この時に大石はおそらく瑶泉院に対して直々に亡主の復讐を誓っているはずである。そのうえで赤穂開城以来自らが管理している瑶泉院の輿入れ時の持参金の一部(化粧料六百九十両)の使用許可を得ている。一両を現在の十万円に換算すると六千九百万円に相当するのだが、じつは、この事こそが大石の江戸下向最大の目的であったとされているが、その証拠は存在していない。

また、江戸滞在中の十一月十四日が内匠頭の月命日にあたることから、不調法により五年以上前に赤穂浅野家を浪人していた不破数右衛門が、一部の同志らが水面下で主君への仇討ち計画を進めていることを聞きつけ、自らも同志への加盟を強く願い出ていたことから、大石もその願いを受諾し、不破は大石に伴われ高輪泉岳寺の内匠頭の墓を参拝し、墓前で頭を垂れ亡主に謝罪したことで帰参が許されている。このように江戸表において様々な目的を成し遂げた大石は十一月二十三日に江戸を発ち十二月五日に山科に帰着している。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。