辞去しようとして風間は立ち上がった。ふと上を見ると、目鼻立ちのすっきりした女の人の写真が飾ってある。

「きれいな方ですね」と風間は言った。
「娘さんですか」
「そうなんですよ」とおばあさんは淡々といった。
「なくなってからかれこれ十年以上になりますか。兄がボケたのもそのせいだと私は思っているのですよ」

つらくなってきた風間は、お礼をしたいから連絡先を教えてくれと言い張る老婦人に根負けして、つい、名刺を一枚置いてきた。年が明けて、お礼のお菓子と共にお金が送られてきた。風間が出した費用より、大分多い金額であった。

「先日は、兄、津山聡が大変にお世話になりました。わたしもその時はお金のことを聞くのは失礼と思っておりましたので、お聞きもせず失礼申し上げました。同封のお金は些少ではありますがお納めください。あれから五日ほどして、兄は安らかに息を引き取りました。最後に人様の情にふれることが出来て兄は幸せでした。寒い折お体に気をつけてお過ごしください。かしこ」

亡くなってしまったのか……風間は人の世の無常を感じた。大きな家に住む一人の老人の孤独な死。天涯孤独な風間には他人事ではないような気がする。

その日の夕刊を読んでいるとき、風間はあっといった。死亡欄に「津山聡」の名前が載っていたのだ。

津山聡 七十八歳。自宅療養中心不全で死去。元八束銀行常務。通称八荘源事件で子供を殺害されてからは、被害者の会の世話役も勤める。

彼は八荘源事件で殺された被害者の遺族だったのか。

風間は感慨にふけった。大学時代、同じ弁論部の中条や笠井が行った八荘源と言う地名はよく覚えている。村上から、実はあの時香奈は八荘源に行ったのだぜ、と聞かされたこともある。

これが風間の身に起こった不思議な出来事の最初のものだった。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『百年後の武蔵野』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。