この日から三日間にわたって城内大広間において、残された家臣らの今後を決定すべく大評定が繰りひろげられる。その頃、吉良は命を取り留めたらしいとの情報が相次いでもたらされるが、吉良がどのような処罰を受けたかについては依然不明のままであった。城内の会議では速やかなる開城を唱える者と、いきり立って籠城または追腹を主張する者とが激しく論戦を繰り広げ、ほとんどの家臣らが興奮状態にあった中で、浅野大学の跡目相続が叶わなかった場合、家臣一同籠城のうえ討死することを採択する。

この重大な決定を受けて大石は公儀に先手を打つ。赤穂を目指してすでに江戸を発っていた収城目付(荒木十左衛門・榊原采女)に対して内匠頭が切腹し城地召し上げられることは承知している。当然ながら相手の吉良も卒去した上でのことと考えていたが吉良は御存命とのこと。

家臣には主人一人を一筋とする無骨者が多く、年寄等がいくら説得しても承服せず、家中全員が納得する筋立てをしてほしい。そうでなければ城の受け渡しが困難になることもありうる。との脅しともとれる嘆願書(通称鬱憤之書付)を収城目付へ直接手渡すため、嘆願使二人が江戸に向け二十九日に赤穂を発つも、嘆願使は道中で収城目付とのすれ違いを確認出来ないまま江戸に到着しており、結果的に使いは空振りに終わっている。

その後、家臣らの意見は大きく分かれたものの、四月十日まで赤穂を立ち退く家臣は一人もいない中で、十一日に最後の会合が開かれた。この頃になると家臣等の間にも一定の落ち着きが戻り、最終的には先の採択が翻り赤穂浅野家の再興を第一とした速やかなる城明け渡しが決定する。

それまで籠城や追腹などと過激な主張を繰り返していた者たちにとって、けっして全員が速やかなる開城に同意したわけではなかったが、開城以降については全て筆頭家老である大石に任せるとし、皮肉にも城代家老大野九郎兵衛が当初から主張していた通りに事は運ばれていった。

この日以降、大野ら当初からの開城恭順派は順次赤穂を後にしている。そんな中、四月十四日に江戸定府の堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛の三人が赤穂に到着する。

浅野家再興を第一に唱える大石らに対して、堀部らは主君の仇である吉良への仇討ちを強く申し入れるも、すでに速やかなる開城が家臣らの総意として決定していたことから堀部らの主張は叶わず。納得のいかない堀部らは城下の同志らに武士の本分として、亡主の仇討ちを説いて廻るも埒が明かずにいたところ、大石の「以後の含みもこれ有り」の一言に理解を示し、取り敢えず大石に随い一旦は浅野家再興および速やかなる開城を受け入れている。

十八日に城内検分が全て完了し、城明け渡し本番当日の十九日は朝七時各城門が一斉に開かれると受城使が入城し、浅野家から引渡し文書が提出される形式的な儀式だけで城明け渡しは終了している。最後まで城内に残っていた大石ら旧浅野家家臣らは、万感の思いを抱きつつ清水門から退城している。

大石はその後も三十数名の旧家臣らとともに残務処理のためそのまま赤穂に滞在するが、その他の同志らは流浪の身となって知人や親戚筋などを求め三々五々赤穂を後にしている。大石一家も城内の屋敷を出て、四月十五日には城の東側を流れる千種川を渡った尾崎村おせど(赤穂市尾崎)に転居している。直後に大石は精神的疲労からか左腕に疔種(化膿して腫れる病)を患い寝込むが、五月二十一日までには全ての引き継ぎを終えている。

赤穂退散後には親族である進藤家が一部の土地を管理している山科(京都市山科区)に隠棲することを決めており、悠長にも夫人からの大坂天神祭と京都祇園祭りを見物したいとの希望にそって、ひとまず先に家族を山科へと送り出し、大石はそのまま尾崎村に残り、六月二十四日に浅野内匠頭の百箇日法要を赤穂花岳寺で営むと自らは翌二十五日に赤穂新浜(御崎)を発って海路大坂を経て山科に向かっている。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。