赤穂城明け渡し

主君浅野内匠頭の刃傷事件を報せる最初の使者が赤穂に到着したのが三月十九日早朝。持参した書状には内匠頭が吉良に刃傷におよんだとする以外、内匠頭の処遇および赤穂浅野家の処分については一切触れていなかったが、筆頭家老の大石は直ちに城下の家臣に総登城を命じ江戸からの急報を告げた。その後相次ぐ報せによって大石は城主浅野内匠頭が切腹したことを知る。

ところが、情報が錯綜したうえ混乱し、大石自身にとってもはじめてのことであり今後どのように対処すべきかを図りかねていた。まずは正確な情報を得るべく、この日のうちに家臣萩原文左衛門と荒井安右衛門の二人を江戸に派遣している。

同じ日の三月十九日江戸において、殿中で内匠頭を押し留めた功により梶川与惣兵衛には武蔵国足立郡に五百石の加増があり、それまでの下総国葛飾郡の七百石の所領と併せ千二百石となる。五万石の大名家に仕える筆頭家老の大石内蔵助でさえ千五百石であったことからして、七百石から千二百石への加増は異例の大出世であったと言える。このことから当時の幕府側の評価として殿中で内匠頭を押し留めた梶川与惣兵衛の功績の大きさが伺い知れる。

刃傷事件翌日、内匠頭の養嗣子(実弟)浅野大学が評定所に呼び出され、内匠頭の切腹に連座して閉門が仰せ付けられ、木挽町(中央区銀座四丁目 現歌舞伎座)の屋敷で謹慎している。

その後、鉄砲州の浅野家上屋敷や赤坂の下屋敷が幕府によって没収されたとの報せが赤穂にも届き、大石は赤穂浅野家の改易及び赤穂城明け渡しが必至であることを悟る。ところが肝心の吉良の生死に関する情報が少なく、大石は吉良の生死確認のため三月二十五日に二名の使者を江戸に派遣している。

そうこうしている間に、赤穂城明け渡しが四月十九日に決定。すると三月二十七日には在籍している三百名を越す家臣が城中広間に招集される。

実際にはこの時に居合わせた家臣は赤穂城下および赤穂近郊に点在していた二百余名で、江戸家老の安井彦右衛門や赤埴源蔵、奥田孫太夫、堀部親子ら江戸定府の家臣や参勤交代で江戸在府だった家老の藤井又左衛門、片岡源五右衛門、近松勘六らはその場に居合わせてない。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。