赤穂浅野家断絶

松之廊下で刃傷事件が起きている時、将軍綱吉は儀式に臨むために沐浴して身を清めていたため、側用人柳沢出羽守からの報告は将軍の装束への着用が終わるまで控えられていた。事件の報告を受けた将軍綱吉は激怒し即刻処置を下す。

その内容が下記の通りで、殿中において吉良に斬り掛かった内匠頭は一旦奥州一ノ関城主田村右京太夫にお預けとし、追っかけ公儀の命により即日(午後六時頃)切腹の刑が言い渡され同時に赤穂浅野家は改易となる。一方の吉良は殿中での無抵抗の振る舞いが評価されお構いなしとされた。

内匠頭の切腹の場所として指定されたのが田村右京太夫上屋敷(港区新橋)。介錯人には徒目付磯田武太夫が指名されている。内匠頭が切腹に使用した脇差しは田村家が用意したものである。因みに、この田村家は浅野家とは「不通」の関柄にあった伊達家の流れを汲む家柄である。

内匠頭の辞世の句として「風誘う 花よりもなお我はまた 春の名残りを如何にとかせん」が有名であるが、この辞世は『多門伝八郎覚書』の中にしか見ることができず、浅野家に伝わる『浅野家家秘抄』によれば、家臣らが田村家に内匠頭の亡骸を請け取りに行った際に棺に入れた明細にもこの辞世がないことから現在では辞世の存在そのものの信憑性が疑われている。

この辞世の句とは別に、内匠頭が切腹に臨む直前に口上したものを田村家の家臣が書き留め、内匠頭の亡骸を請け取りにきた家臣らに渡している。この時の文言が田村家の『浅野内匠頭御預一件』の中に伝わっている。

「此段兼而為知可申候得共、今日不得止事候故、為知不申候。不審可存候」である。これを訳すと「此の段、兼ねて知らせ申すべく候得共、今日止む事を得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ず可く候」となり、「此の度の件は事前に知らせておくべきであったが、本日止むを得ない事情があり、知らせることが出来なかった。不審に思わないでくれ」となる。この内容からすると内匠頭は吉良に対して刃傷に及ぶ以前から意趣があったことが感じられる。

田村家では急遽内匠頭の切腹の支度が始まったが、責任者である大目付庄田下総守安利は公儀を忖度してか、自らの判断で内匠頭を田村家の庭先で切腹させることを指示する。ところが、この事を問題視した宗家の浅野安芸守が、翌十五日に幕府並びに田村家の宗家松平陸奥守綱村に抗議し、その結果を受けてか、八月になって大目付庄田下総守は奉職無状として罷免されている。

夕方には片岡源五右衛門ら浅野家の家臣数名が田村邸に内匠頭の亡骸を請け取りに行き、内匠頭が切腹に臨んだ際に身に付けていた御大紋、大小の帯刀、吉良に刃傷に及んだ小さ刀、鼻紙、足袋、扇子などを棺に入れている。この時田村家から、内匠頭の切腹に際し介錯人の磯田武太夫が御首を打ち損じたが、内匠頭は少しも動じなかったと伝えられている。

その日の晩の夜十時頃、内匠頭の亡骸は片岡源五右衛門らによって高輪泉岳寺へと運び込まれている。この時の様子からすると吉良に刃傷に及んだ小さ刀は高輪泉岳寺の内匠頭の墓に亡骸とともに埋葬されていることになっている。じつは今年になって内匠頭の墓の改修工事が施されており真相が解明するかもしれない。

事件直後には、早速鉄砲州の浅野家上屋敷(中央区明石町 現聖路加看護大学)が幕府に没収されることとなり、十五日のうちに屋敷内の全ての調度品や家財道具を搬出しなくてはならなくなり、足軽頭の原惣右衛門が陣頭指揮を執り一旦は赤穂浅野家の本所屋敷(墨田区江東橋)などに移動させている。

また、同屋敷で暮らしていた内匠頭室阿久里は、主人内匠頭の死に目に会うことも叶わず、十四日のうちに落飾され寿昌院(後日瑶泉院)と改め、深夜未明に駕籠に乗って実家の三次浅野家下屋敷(港区赤坂 現氷川神社)に引き取られている。上を下への大騒ぎの最中、城主浅野内匠頭による刃傷事件およびそれに付随した様々な情報をもってこの日早駕籠が相継いで江戸を発ち領地播州赤穂へと向っている。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。