そのとき洋一は、自分でもなぜそうしたのか分からないのだが、その場にしゃがみこんだ。そして今まで手慰み程度にしか回していなかったルービックキューブを、六面揃えるべく熱心に回し始めた。色が揃うと、すぐまたぐちゃぐちゃにして、再び六面を完成させる。その繰り返しに洋一は没頭した。しゃがみこんでいる洋一の両脇を、大人達が何か叫びながら走っていく。なんだか変な臭いもしているようだ。だが洋一は顔を上げず、しゃがみこんだまま手だけを動かし続けた。

五回くらい六面を完成させたときだったろうか。突然洋一は肩を掴まれ、誰かに持ちあげられた。そのままムギュッと抱きしめられる。母だった。母は無言で洋一の手を引くと、早足で歩き始めた。腕の中の妹が泣きわめいている。母が向かったのはエレベーターではなく、階段だった。どういうわけか階段には人が押し寄せていた。押さないでください、という声がほうぼうで飛び交い、妹と同じく泣き叫んでいる子供の声が聞こえる。洋一は何が何だかわけが分からず、母に手を引かれながら人の波に押されるように一階まで下りた。

後になって知ったのだが、洋一がいた下の階のエレベーター付近で火災が発生したのだった。漏電から火花が出て、それがたまたま展示されていた毛布に移り、火事に発展したらしい。デパート内は一時パニックとなり、逃げる際に四人が怪我をし、煙を吸った老人が一人気を失い、一人が軽いヤケドを負った。

「あの場に動かないでいてくれて本当に良かったわ。うろうろしてたら煙を吸い込んだりして大変なことになっていたかもしれない」

家に帰ってから、母は洋一を強く抱きしめた後、言った。もしそのときルービックキューブをやっていなかったら、確かに自分は動き回ってなかなか母に見つけてもらえず、どうにかなっていたかもしれない。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『空虚成分』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。