「いやあ、はじめてお邪魔しましたが、いいところですね。静かだし」

磯部はリビングに入ると、窓の外に広がっている緑の多い景色を見ながらいった。

「そうでしょう。交通の便がいいわりに静かなんですよ。大通りから少し離れていますから。落ち着いて仕事ができそうだなと思って、ここに決めたんです」

といったが、じつは彼女は気が入れば、どんなに騒がしいところでも、神経を集中させることができるという特技を持っている。

「それではさっそくはじめましょうか。最初はどんなことからやりますか?」

と磯部が聞いたので、沙也香はすぐに用意していたものを取り出した。

「それでは最初に、ここに書いてあることについて教えていただけませんか」

そういって開いて見せたのは、高槻教授の覚え書きのノートだった。

「これはひょっとして─」磯部は開かれたノートを見て首をかしげた。

「そうです。高槻教授が覚え書きのために書いていた、いわば研究日誌とでもいうんでしょうか、書斎に置いてあったあのノートです」

「ああ、やっぱりそうですか。あれは高槻先生の個人的な感想を記録したものだから、参考文献にするには向かないと思って選ばなかったんですが」

「わたしには参考になることがたくさん書いてあったので、お借りしてきました。だってわたし、学者になるつもりはまったくありませんもの。磯部さんとは立場が違いますわ」

そういって、沙也香は軽く笑った。

「たしかにいわれてみればそのとおりです。それで、どこがわからないんですか」

「わからないというよりも、くわしい説明をお願いしたいんです。なにしろ教授の覚え書きなので、素人のわたしにはよくのみ込めないところが多くて…」

「それはそうでしょう。プロ中のプロが書いた、自分の頭の中を整理するための覚え書きですからね。素人の人が読んですぐ理解できるわけがありません。わたしがそれを選ばなかった理由は、そんなことも考えたからです」

「ああ、そうだったんですか」

「わからないというのは、具体的にはどういうところですか」

「それはですね、ここです」といって、開いたノートを指さしたところには、次のような箇条書きにされた文章が書かれていた。

※本記事は、2018年9月刊行の書籍『日出る国の天子』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。