一発屋作家が再び筆を執る――。
作家の吉川は、過去に少しばかり本が売れて以来スランプに悩んでいた。
友人たちの助言をきっかけに、再び筆を執った吉川。彼が紡いだ物語とは……。
ベストセラーが生み出される過程を楽しめる小説を連載にてお届けします。
夏、だったと思う。はっきりしたことは覚えていないが、あのじめじめした感じはとてもよく覚えている。
私は多汗症の気があるから、もしかしたら夏ではないのかもしれない。そんなどうでもいいことを考えながら、書きかけの原稿用紙に目を滑らせた。
――駄目だ。全然思いつかない。続きが書きたいのに、書けない。
気に入りの万年筆が手に握られたまま、私の汗でぬめりを増すだけで一文字も書けなかった。これがいわゆる“スランプ”というものなのだろう。
齢十八でデビューしたての頃はいろんな出版社に引っ張りだこだった。だが、二十年も経つとその栄光もすっかり輝きを失ってしまっていた。今は小さな出版社で数ヶ月に一度の頻度で雑誌に連載を寄稿している。
昔はいくらでもアイデアが浮かんできたものだが、なかなか昔のようにはいかないことばかりだ。十数年前は『瑞月 真(みづき まこと)』といえばどの文芸雑誌にも名を連ねるほどであったのに、今はもう見る影もない。
「――もうやめた」
三枚程度書いた原稿用紙を丸めてゴミ箱に放り投げる。
今更説明するのもどうかと思うが、私はデビューした頃から小説は全部原稿用紙に書いている。ワープロを使うように勧められていたがどうも私の肌には合わず、ずっと原稿用紙のスタイルを貫いてきた。
登場人物
吉川(きっかわ) 小説家 「私」
御巫(みかげ) 古書店を経営 博学
由津(ゆいづき)木 俳優 時代物を得意とする
港(みなと) ベンチャー企業を一代で築き上げた凄腕
都竹(つづき) 警視正
《水蜜桃の花雫》
お幸(ゆき) 近江屋の主人の孫娘 跡取りとして育てられる
藤七郎(ふじしちろう) 近江屋へ奉公に来た青年
与七(よしち) 近江屋の主人
お吉(よし) 近江屋の女将
佐助(さすけ) 近江屋の番頭
お菊(きく) 近江屋へ引き取られた元舞妓
お弓(ゆみ) とある農村の大地主の娘 近江屋へと嫁ぐが双子を生んだため離縁される
《薔薇の花影に約束を込めて》
高峰(たかみね) 倫也(みちなり) 日本帝国海軍中尉 元華族
美波(みなみ) 百合子(ゆりこ) 倶楽部〈青い満月〉で雇われている踊り子
四条(しじょう) 倫也の上司
信濃(しなの) 〈青い満月〉のボーイ
美波(みなみ)博理(ひろみち) 百合子の兄
美波(みなみ)直哉(なおや) 百合子の父
高峰(たかみね)善造(ぜんぞう) 倫也の父