近眼の風間には初めその意味がよくわからなったのだが、気が付いてぞっとした。その包帯の表面には、アオカビが一面に生えていたのだ。

老人は紙袋を抱えていた。せんべいを取り出しては、ぼりぼりとかじっている。片手には、ワンカップの日本酒。目には焦点がない。

病院から脱走してきたのだろうか、それともホームレスだろうか。相当に酔っていて、古ぼけたコートに吐いた跡もあった。

そうした黴(かび)の臭い、汚物の臭い、酒の臭い、そして生きながら腐敗し始めている老人の臭いが交じり合って、車内に充満していたのである。あたりの乗客が逃げ出すのも無理はなかった。

次の駅で乗ってきた乗客も、その次の駅で潮が引くように他の車両に移っていった。風間も降りようと思って、有梨の手を引っ張って、ギョッとした。有梨は風間の手を強く引っ張り返して、下りないという意思表示をしたのである。

有梨の顔を眺めて、風間はしまったと思った。目は老人のことを凝視している。子供ながらてこでも動かないという気迫が感じられる。

その目に宿っていたのは、初めて見る人生の厳しさへの驚きだろうか、誰も助けてやらない大人たちへの不信感だったろうか。子供っぽくお下げにしている愛くるしい有梨の目から、不意に一筋の涙が流れ出るのを風間は見た。

新宿駅に着いても、老人は降りなかった。風間は有梨の手を強く引っ張ったが、有梨はどうしても下りようとしなかった。黙ったままものすごい力で強情に引っ張り返した。

渋谷駅に着いても恵比寿駅に着いても同じことが繰り返された。ただ、じっと老人を見ていた。車内には暖房が効いていて、耐えられない臭気がむっとする。

その目の前に、風間と有梨がただ二人座って、老人を見つめている。有梨は先ほどから一言も口を利いていない。このままでは山手線を一周してしまう。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『百年後の武蔵野』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。