官幣大社朝鮮神宮

大正9年(1920年)5月27日地鎮祭、翌10年6月10日釿始(ちょうのはじめ)祭と、祖父母が送り込まれた時期から、本格工事が始まった朝鮮神宮。

大正14年(1925年)10月15日、鎮座祭(正式に神様に神殿にお入りいただいた日)をもって完成となりました。東京帝国大学名誉教授工学博士伊東忠太氏の手によって設計され、南山の地形を利用して造られた面積8200坪の広い境内、地上より繋ぐ384段と長く傾斜のきつい階段が特徴で、先に造られた帝都東京の明治神宮より高い場所にありました。

そのため、神殿は神明造でありながら、神宮全景は別の顔を持つという、漢江側に、三角形を形成する3施設のなかで、最大の秘密をもっていたものとなります。この神宮も、朝鮮総督府新庁舎同様に、ほとんどの歴史書では、朝鮮守護のため、国家神道を掲げた日本によって造られたという、紋切り型の説明がされているかと思います。

▲伊東忠太建築作品(昭和16年・1941年)より朝鮮神宮 (国立国会図書館ウェブサイトより)

これも、当然のことながら事情を知っていた人たちに、詳しい調査をして考察されたものではありませんので、建立の意味が、まったく違うものとなってしまっています。朝鮮神宮は、今まで書いてきた「韓国の維新」という大きなテーマに沿って進められていた、極秘計画の中心になるものでした。

この施設は、景福宮を頭とした龍の形の見立てでは、龍が握る宝玉に位置していました。それゆえに、ここは最も高い場所であり「高天ヶ原」を再現した場所と言われていて、地図では景福宮より下に位置していても、この高さによって次元が違う、特別な扱いになっていたそうです。

そして、この場所において、李王垠殿下の新韓国皇帝就任式典が行われる予定だったのです。朝鮮神宮は、新しい韓国と、それを統べる皇帝の誕生の式典会場であり、神殿にて、祭神である天照大御神と明治天皇に即位の報告と、これからも日本と力を合わせて国造りに励むこと、「まだ自分も、自分の国も独り立ちはできかねる、今まで同様、日本の後見をお願いしたい」との発言をしていただくことで、韓国に方子さまを嫁がせた日本が、韓国の政治に関与し、軍を置き続ける対外的な口実にするつもりでした。