「音大生ってね、普通じゃないの。ワンルームの部屋なのに平気でグランドピアノを置いているの。信じられないでしょ。だから初めて彼女の部屋に入ったときに、私、思わず訊いちゃったの。あなたいったいどこで寝ているのよって」

典子が一方的に話すのは、別れて以来のふたりの電話のやりとりそのままだ。話す典子にうなずくだけのぼく。典子はぼくの返事を待たずに話を進めるようになっていた。

「ときどき、私のフルートの伴奏をしてもらうの。ぜいたくでしょ。いずれはプロのピアニストになる子なのよ。もちろん、お礼ははずむわ。彼女もけっこう飲める人だから、練習のあとのビールは私が持つの」

フルート。それは典子が母親のつぎに大切にしていたものだ。学生時代、ブラスバンド部に所属する典子の右手にはいつもフルートの小ぶりなケースが握られていた。神経質なくらい取り扱いには気をつかい、決して人には触れさせなかった。卒業後もヤマハの音楽教室でレッスンをつづけていたが、ぼくと暮らすあいだ、ぼくの前で吹くことはほとんどなかった。

早朝、ぼくが起き出す前に台所で練習していた。それを寝室のベッドから、ぼくは聴くともなしに聴いていた。気に入っているのかよく吹く曲があった。金管特有の甘い音色と物哀しい旋律がいまも耳に残るその曲は、ガブリエル・フォーレが作曲した組曲『ぺリアスとメリザンド』のなかの「シシリエンヌ」という小品だった。それを収めたアンセルメがスイス・ロマンド管弦楽団を指揮したレコードは、もとは典子の持ち物だったが、いまはぼくの手もとに置かれている。フルートを吹く典子の、その面影を重ねずして聴くことのできないかけがえのない一枚として。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『シンフォニー』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。