②人名・官職名は次のような表記である。

人名
卑弥呼(日巫子)、狗古智卑狗(くくちひこ)(菊地彦)、壱与(一代)
都市(といち)牛利(都市は長崎県に現存する苗字)
載斯(さし)(尺)、烏越(あお)(青)
官職名
彌彌(耳)、彌彌那利(耳成)

以上のように、現代に通じる音の表現が見られる。

魏国側の一方的な表現であれば、読み方も発音も大きく異なることになり、倭人側が、漢字で表示した可能性が大であると考えられる。

③終わりに

倭国では、国名、人名、官職、戸数、階級、祖賦を治める邸閣、市場等が把握・管理された社会が垣間見える。ということは、国を統治するには、文字、数字が存在していることの証明でもある。

アヒル文字、草文字、クサビ文字、豊国文字等の古代文字が国内では使用されていたかもしれないが、伊都国に置かれていた対外的部門では、漢字の判読・読み書きが可能であったとの事実が「倭人伝」から読み取れるし、邪馬台国時代は漢字文化の兆しの時期かもしれない。

我々が考える以上に、倭人の一音一語形式の漢字文化は進化していたと想定される。

近年、硯(すずり)が注目されている。福岡県内の弥生遺跡から次々と筆記用具の硯の発見が報告されている。

伊都国の中心の三雲・井原遺跡(糸島市)に続いて、奴国に相当する薬師ノ上遺跡(福岡県筑前町)と奴国の比恵遺跡(福岡市)からも三世紀の石製品が硯と確認され九州考古学会から報告されている。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『邪馬臺國は豐國にあり 歴史学と考古学から読み解く⽇本古代史』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。