プロローグ

今年も武蔵山脈に駒草の咲く美しい季節がやってきた。

二〇一九年七月二十八日(日)。岬明純(みさき あすみ)()は夫・()典(りょうすけ)()、長男・ヒョウゴ、次男・イオリと、約一年前に遭難した三男・サクラが発見された現場へ向かった。何か月も前から計画し、当時捜索にあたった山岳捜索隊の方々三名にガイドを依頼した。明純にとっては熟慮を重ねたうえの、決心の慰霊登山だった。

夫・良典が依頼したのは昨年お世話になった山岳捜索隊の結城隊長。結城が山岳捜索隊の中から手配してくれたガイドは、昨年七月二十一日に良典・ヒョウゴ・イオリの三人が、サクラ発見現場に行った時も同行してくれた人たちだった。

明純は喘息持ちだ。サクラの捜索中、サクラの車が止めてあった鬼塚でさえ、息切れがした。鬼塚からたった十五分でも歩こうものなら、最初の三分で呼吸が荒くなる。

そんな明純は、行きたくともサクラの発見現場には行けなかった。さらに、持病と名の付くものが多数あり、白内障(術前)・鼻孔のポリープ・腺腫瘍甲状腺腫・逆流性食道炎・胃のポリープ・椎間板ヘルニア(腰)など、余命宣告はされないまでも、いつ悪化して命を脅かすかわからない病で、毎日の薬は十種類を超えていた。

だからこそ、明純は決心した。必ずサクラの最期の地に行くと。そう決心してから一年、明純なりに体を作り体調管理に細心の注意をはらい、この日を迎えたのだ。

サクラ、かあさん行くよ。もうサクラがそこにいないとわかっていても、どうしても行きたいから。サクラがたった一人で助けを待っていた地に、必ず降り立つよ。

ガイドの一人がストックを貸してくれたので、明純は初めてのストックを使って歩いた。コースはサクラの歩いた道ではない。サクラが滑落した崖へ行くのは明純には険しすぎるうえ、そこから滑落した澱川沿いに行くのにまた難所もあり、夫の良典や息子のヒョウゴ・イオリでも素人には難しい。明純たちは竹谷温泉で待ち合わせをし、サクラのコースとは全く反対方向から澱川沿いを発見現場に向かった。