【8】

桜の蕾がほころび始めた三月下旬の月曜日、宮神は右手に卒業証書の入った筒を持ったまま、キャンパス内をひとり歩いていた。そうしてゆっくりと四年間を振り返り、悔いのない大学生活を送れたと安堵した。学業ではさまざまな専門的知識を身につけたし、上杉をはじめとするサークルの仲間との友情も深められた。

一番の転機となったのは、小豆島における美穂との出会いだった。豊島の話を聞いた後は、どのような職業を選択したら社会に貢献できるのかと、何度も自己問答を繰り返した。

環境問題と対峙するのであれば、エネルギー業界に身を置く、あるいは自然保護官として環境を守るという道も浮かびはした。だが、結局選んだのは、記者という職業だった。

美穂との対話で無関心が世界を覆っていることに気づいた宮神は、環境問題に関する情報を人々に広く発信する仕事をしたいという思いが芽生えた。もちろん、実務的な作業で環境問題を解決に導くのも尊い仕事だ。だが、講義で「無知の知」に衝撃を受けた身にとっては、読者に知る喜びを感じてもらえる記者職が、より魅力的に映った。

記者は地域社会や業界のテーマが把握でき、国内外の情報が得られる。人、地域、企業、国はどうあるべきかを問いながら、解決策を模索する。まだ社会の何たるかを知らない宮神にとっては、自分のキャパシティを広げるためにもこの道しかないと思うようになっていた。

就職活動では新聞社やテレビ局などマスコミ数社の入社試験を受け、銀座に本社を構える通信社から内定をもらった。

就職先が決まったことは、すでに美穂にも手紙で伝えている。そこには、「美穂さんとの出会いが人生の転機となりました」としたためた。明日からは、二泊三日で小豆島に行き、美穂と会う予定となっている。今年の合宿以来の再会が楽しみだ。

ひとり物思いに耽っていると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると上杉がいた。

「先輩、卒業おめでとうございます」

恨めしそうに卒業証書を見つめてくる上杉を「自業自得だろ」と突っぱねると、「まあな」と軽く切り返された。留年こそしているが、そのことで特段頭を抱えているというわけでもないのだ。

宮神は数年前、上杉がある教授から「このままでは留年だし、君の将来にも関わるよ」と心配されている場面を目撃していた。上杉はその場で教授に八年留学したら退学になることを確認し、あっけらかんとした顔で「良かった、あと五年は好きにできますね」と答えた。教授の顔はみるみる朱に染まり、上杉は信じられぬほどの大声で一喝された。

だが、本人はまるで堪えていない。パテント料があるから学費にも困らず、たびたび休学しては外国をあちこち旅してまわっている。上杉にとっては卒業証書を手にするよりも、世界を冒険して見聞を広める方が大学生活の目的に適っているのだ。

そんなこんなで、宮神は上杉より一足早く卒業することになった。

「お前はどうしてマスコミで働くことにしたんだ?」

「まだ社会の何たるかを知らないから、いろいろ勉強できるところがいいと思ってさ」

「真面目だな。仕事は楽しくて稼げるのがいいよ」

「お前らしいな、ハハハ」

まったく上杉らしい物言いに、宮神は思わず吹き出した。この男に関しては何年留年しようが心配はいらないだろうと宮神は確信した。

「地球温暖化や人口増加、食糧危機、ゴミ処理、社会格差、環境教育……問題は山積みだ。みんなで研究したことをもっと追いかけてみたいんだ。もっと理解したいんだ」

「ああ、そうだな。お前の思いはよくわかる。さあ、卒業祝いに飲みにでも行くか!? 」

「いや、明日から小豆島だから、帰ってパッキングをするよ」

「お前、美穂さんとまだ続いているのか?」

「続いているどころか、付き合ってもないよ」

「え、告白してないの? 同世代の女子がお立ち台で扇子を振りながら踊ってる時代に、お前はどれだけ真面目なんだよ」

「関係ないだろ」

「プラトニックラブだねえ」

「うるさい」

こうして上杉とバカ話をするのもしばらくお預けかと思うと、感傷的になる。以前、上杉はいまは世界各地を見て回ることに夢中だが、ゆくゆくはどこかで先端的な研究がしたいと話してくれた。社会人になった上杉の活躍を記者として取材できれば、これほど幸せなことはない。

宮神は上杉と固く握手を交わし、キャンパスを後にした。十日後には社会人になっているのかと思うと、身の引き締まる思いがした。

※本記事は、2019年10月刊行の書籍『AMBITION 2050』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。