環は晩年藤井との生活について、藤井はおとなしい人で、とても自分を可愛がってくれ、環自身も藤井を愛し、音楽の仕事以外はすべてを藤井に捧げ尽したと語っている。

環が十七歳の時に祝言をあげたのであるから足掛十年の月日がたっている。そのうちの七年は藤井が小倉十二師団や外地に勤務しており、この別居期間はいわば学校や世間には内緒の専ら休暇を利用した家庭生活であったので、世間なみの世帯を構えての生活は二年半位のものである。年齢にしても離婚の時は藤井三十四歳、環二十六歳といった男や女としての社会の分別がようやく地に付き出す年配であるから、家庭生活も表と裏ではちぐはぐだったとしても致し方のないことである。

しかし、藤井は一等軍医、環とて東京音楽学校の助教授で世間態を繕うことの必要な社会的地位の人である。

何事も鷹揚で頭のよい環は世間や家庭や夫婦のしきたりを藤井から素直に吸収できたし、また自分の仕事を続けられるのも善一のお陰だという気持ちも忘れてはいなかった。

一等軍医夫人として陸海軍将校婦人会や愛国婦人会の会員として上流夫人たちの知己を得たことも音楽の理解者を得る助けとなっていた。

藤井と家庭を構えてからは靖国神社臨時大祭には藤色紋付に二百三高地の髪型に華やかなリボンを付け、日露戦争の戦没遺族、参拝者の接待をきびきびと務めるなど「あれが音楽学校の先生ですか」と会員たちが驚くほどの鮮やかさであった。