どこをどう彷徨ったものかハッキリとは覚えていなかった。ただ、自分の心の平静さを保てず暗い雨の中をずぶ濡れになりながら「騙しやがって、死んでやる!」と涙ながらに繰り返し叫んでいたのは薄らと覚えている。騙され、殺されることが恐くて逃げた自分がどうして死ななければならないのか、どうして死と繋げなくてはいけないのか美紀には理解の域を超えていたが、そのときは絶望の淵から逃れるには死ぬこと以外思い浮かばなかったのだ。

雨の降る真っ暗な道を狂乱したように息も絶え絶えに死ねる場所を求めて走り回った。そんなとき、疲れて道端で立ち止まったところをカーブした道から突然現われた鮮魚運搬用トラックのヘッドライトに後ろから照らされ、美紀はハッとなった。車の強いライトとヘトヘトになった体の疲れが先程受けた心の衝撃を幾分なりとも緩和したのか美紀の心を少しだけ正気に戻した。

トラックを止めようと美紀は両手を大きく振りながら道路の真ん中に飛び出した。エアーブレーキを強く踏んだ空気の抜けるような音を立ててトラックが美紀の手前五、六メートルで急停車した。美紀は運転席に駆け寄りドアを強く叩いた。

「危ないやないか! 道に飛び出して。死ぬ気か!」

運転席のウインドウを開けて運転手が怒鳴った。白髪頭の六十前ぐらいの運転手だった。美紀が切羽詰まったように港近くまで乗せてくれるように頼むと裸足でずぶ濡れの美紀を訝しげに見ながらも助手席のドアを開けてくれた。

「こんな時間にそんな恰好で、幽霊が出たかと思ったわ」

そう言いながら髪を拭けとタオルを貸してくれた。顔見知りではなかったが、スナック漁火の娘ですと言うと、ああ、あのママの娘さんかと運転手は母の智子を知っていた。わけありを合点したのか何も聞かずに漁火の前まで送ってくれた。

スナック漁火は午前を回り既に閉店していたが、店の中には灯が点り母の智子は片づけのためにまだ起きていた。美紀は激しくドアを叩き、訝るように掛け寄って来た智子に開けて貰うと転がるように店に入った。全身ずぶ濡れでしかも裸足のパジャマ姿で泣いて帰って来た美紀に事情を聞いた智子は憤怒の夜叉顔になった。

「話し合いの結果がどう転ぼうとこの件は母さんにすべて任して貰うよ」

智子はそう言った。店の外は激しい雨が一晩中降り続いていた。

雨が止んだその日の朝早く智子は、まだ恐怖の残る顔の美紀を連れて夜叉顔そのままに相手の家に乗り込んだ。

小さな海辺の町で生まれ育ち、スナック「漁火」で働く美紀には小学生の頃の忘れられない思い出があった――。つましくも明るく暮らす人々の交流と人生の葛藤を描いた物語。