その下に光化門通が伸び、そこから太平通、南大門通と走り、京城駅から線路伝いに漢江へと、龍のからだがうねるようになっていました。

城塞都市時代、夜間に門を閉じることにより、皇帝の住む宮殿や政務を執り行う重要施設の収まった敷地内に、地から湧き出る龍の力が満ちて、日没後跋扈する悪鬼や病魔を、外界から入れさせないという古代中国の思想に基づいていました。

また、この龍は旧韓国の主である中国の皇帝に馳せ参じるように、頭が満州側に向いている形になっていましたが、日本側では、皇帝(天皇)=龍という考えがとうになくなっていたことと、東京に頭を向けるよりも、今後、満州方面への影響拡大を目指す日本にとっては、進行方向へ向いている形になるので都合がよく、朝鮮側への配慮と併せて、この考えを取り入れたそうです。

上記写真は、併合前の韓国李王坧皇帝が行った巡幸の様子です。教育産業の奨励や高齢者を見舞われ、支配者である皇帝が、自ら民に姿を見せるという、新しい時代が韓国にも訪れたことを示した、大きな一歩となりました。

地方役人が厳しく民衆から税を取り立てながらも、私腹を肥やし、中央政府にそのお金を上げてこないという、乱れた政治が続いていた李王朝末期。

韓国の民の生活困窮の不満や憎しみは、支配者である王族に向いていたため、すぐには、日本の明治維新を手本にした皇帝の下の近代化はできかねていました。

韓国皇帝西鮮御巡幸(明治43年・1910年)2月2日朝鮮鉄道史より(国立国会図書館ウェブサイトより)

そのため、明治維新以降海外を視察し、西欧各国の進んだ皇族の振る舞いを参考に、日本の皇族の近代化にも多大な貢献をした、伊藤博文は、一刻も早く韓国の民から王族が愛されるようにこの巡幸を進言するだけではなく、現地にも同行したのです。

このような改革を引き継ぐ韓国維新後の皇帝も、民の前に姿を見せられるのですから、景福宮が朝鮮総督府新庁舎で隠れ、敷地外から見えにくくなる影響など、当時は考えに入れることもなかったのです。