奇跡の再会に端を発する、怒涛の取引先開拓劇。

実は、大阪万博が開催された一九七〇年、一ドルが三百六十円の時代に、我々はキッコーマンが企画したアメリカ流通使節団に参加した仲間だったのである。羽田での出発式は盛大で花束に溢れ、拍手と万歳三唱に送られ、まるで戦地に出征するかのようであった。

初めてのアメリカ旅行は聞くものも見るものもスケールが大きく、我々は圧倒された。どこに行っても道路は広く大きく、すでにディスカウントストアやショッピングセンターなどの複合施設があちこちにあり、「こんな国と戦争するなんて、日本の軍部は自惚れが酷い」とさえ思った。

余談だが、ニューヨークの五番街にあるティファニーで家内に宝石をカードで買ったが怪しまれて相当待たされたのには閉口した。おそらくその場で信用調査を行ったのだと思う。

また、アメリカではコンピューターが普及していたのにも驚いた。そのお陰で上野食品は業界でどこよりも早くコンピューターを設置できたのである。

コンピューターと言えば当時、日本ではまだパンチ穴の開いた紙テープを用いていたが、アメリカではすでにフロッピーディスクを使っていた。私はその性能に驚き、何とかアメリカ製のコンピューターを導入したくて探していたら、運よく機械商社の山善から中古のアメリカ製のコンピューターを買うことができた。