蝉がギャンギャン泣きわめいていた、とある夏の日。

オカンはスキルス胃がんという病気に罹患した。昭和の昆虫博士のようなダサい丸眼鏡をかけた小太りの医者から、「お腹を開けてみないと実際はわからないですが……、最悪は、余命6ヶ月ということもあります」という死の宣告をうけた。

その夜。オカンは文化住宅の明かりが乏しい暗い部屋で一晩中泣いた。オカンと僕が住んでいた築42年の狭小な文化住宅の間取りは、台所と食堂の機能を兼ねたダイニングキッチン、居間と寝室を兼ねた和室の二部屋だった。母と子の二人暮らしには、とても狭い家だった。

もう少しくらい広い家に住みたかったのだけれども、家賃や引越しの費用を考えると、そのような経済的な余裕は僕の家になかった。日本国憲法第二五条に規定されている「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文を学校の授業で知った。健康で文化住宅的な最低限度の生活を営んでいた僕にとって、憲法が僕をイジっているような気持ちがして、憲法なんてクソ喰らえと厭世的な気分になった。

きらきらとカラフルに光る土壁の横で、すすり泣くオカン。オカンと僕が暮らした文化住宅の二〇一号室には、誰にも見られないように一人でシクシク泣くための贅沢なプライベートスペースなどは無かった。

僕は傍で見ていられなくて、「オカン、大丈夫やって。絶対治るからな、頑張ろうな」という言葉をかけた。根拠はないが優しそうな言葉を並べることでオカンを慰謝しようとした。いや、僕はその言葉を用いることで、自分の心を安堵させていたのかもしれない。

しかしながら、そんなオカモト製コンドームのようなうすうすなセブンティーンの言葉なんかで、死の宣告をうけた人間を癒やしてやれるはずもなく。オカンは顔をしわくちゃにして赤ん坊のように泣いた。

ヒクヒクと泣き続けるオカンを目の前にして、僕はどうすることもできない自分を情けなく思った。自分が肝心な時に役に立たない駄目息子のように思えてきたので、女と借金を拵えてこの家を出て行った父親を恨むことで、僕は自分の価値を維持した。誰かのせいにしなければ、僕はこの夜を越えられないような気がしたから。僕は一晩中すすり泣くオカンの嗚咽をBGMにして、父親を腹の底から恨みながらその夜を越えた。

僕が幼い頃、父親は僕らを見捨てて家を出た。それから僕はオカンと二人で暮らした。若い女だけでなく借金までつくった父親。その負の遺産を僕とオカンは引き継ぎ、オカンは四六時中働き、僕は学校に通いながらバイトをして必死に貧困と闘って生きた。

借金の額も多額だった。僕らは無知でバカ真面目だったので、どこか公共的なところとか弁護士のところへ相談に行くとかいう術も知らず、ただ目の前のグレーゾーンな返済をクリアして行くことに毎日必死だった。将来の夢や希望もなかった僕とオカンだったのだが、くじけずに貧困と闘い続けてこれた明確な理由が僕らにはある。

―「笑い」だ―

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『尼崎ストロベリー』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。