通い続けた白防波堤に至る道は舗装などされておらず、富士製鉄の高炉スラグを砕いた鋭角のバラス(砕石)が敷かれているだけで履いていたお下がりのズック靴の裏に穴が開いて痛く、私には辛く長い道のりであった。函館から室蘭に通じるその幹線道路にも時たま車が通る事があった。車が巻き上げる砂塵が潮風に乗って私の体を包み息ができない辛さが伴った。

道沿いの海側には美しい浜が広がっていて春の大潮の時は磯から沖合まで砂浜が姿を見せて町民の絶好の潮干狩り場として賑わいを見せていた。大きく湾を描く浜の中ほどにはアイヌ部落ホロムイ(幌萌)があって、小さな焼玉エンジンを搭載してチャカチャカ走るチャッカー船を引き上げる斜路が国道の下の海岸からへばりつくように海に落ち込んでいた。私はその長い道のりを歩みながらあの横暴で憎らしいが力強く走る車を大人になったら私でも買えるのであろうか、またいつの日かアイヌが操るチャッカー船よりも大きい船を買って未知の海原を自由に走り回れる時が来るのであろうかと、淡い希望と夢を描き続けていたのを覚えている。

実は私の家は非常に貧しかった。父は教員をしていて八人家族、六人兄弟を養っていたが戦後の食糧難時代である。冬場の暖を取る燃料代、三度の食事代にも事欠いていた。

そして私の家を含めて薄給の教職員の待遇改善のため、北教組の幹部として当時石炭手当と言われた燃料代獲得のために国と闘い、故に校長になかなか昇格されず「万年教頭先生」と周りから言われていた。私は家族の食事の準備に苦労する母親の喜ぶ顔見たさに魚やアサリ、毛蟹を捕るため海通いを続けた事が海への目覚めの原点であったように思われる。そして今、車も船も手に入れ未知の海域に船を乗り入れようとしている。

 
※本記事は、2020年11月刊行の書籍『海の道・海流』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。