近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。

演奏活動と聴衆

当時音楽学校では外国に教員を一名留学させていた。この年、研究科を終了する環が留学選考対象になったとする風評があり、読売新聞(明治三十九年三月二十八日)にも「藤井環女史は音楽研究の為洋行すべし」と記事も出たが実現を見なかった。

明治三十九年三月三日午後六時半芝三田ユリテリアン協会内倶楽部

惟一倶楽部第二回音棠会

環や吉川やまが招かれてそれぞれ独唱をし、二人で二部合唱(二重唱)をしているが曲目は不明である。

明治四十年四月五日午後二時上野奏楽堂

牛込教会婦人会慈善音楽会

明治後半においても慈善音楽会のように聴衆を多く集める為には洋楽のみでは収入に見込みがないため、邦楽を組み合わせたプログラムのいわゆる和洋折衷の音楽が催される。多くの場合、第一部は洋楽、第二部を箏、尺八、三絃との合奏、長唄、常盤津などを配する演目であった。新聞評は当代名手の腕揃いなれば非常なる人気にて盛況を極め、平素の演奏会に異なれる聴衆も少なからざりしとし、環の演奏については藤井夫人の独唱、例に依って小さき柄に似合はぬ音量にて、表情も遺感なかりしが第二回のフリッショッフの方、実の有る様思はれたりとしている。(61)第二曲目ともう一曲歌ったのであるが、プログラムの詳細は不明である。

評に言う「小さき柄に似合はぬ音量」の表現がおもしろい。環の身長は一四五センチ前後ときく。日本人の身長は明治以来百年の間に一○センチ以上は伸びているというから現在の標準で考えるとずい分低く思われるが、当時の平均から考えるとやや低かった程度である。

環自身、自分の背丈の低さについてはずい分気になったらしく、世界の檜舞台で「蝶々さん」を演ずる時も、帯を丸帯で日本風にしめると西洋人には傴僂に見えるといって、平たく結ぶといった工夫をしている。