もう一つは、全国の商工会議所が融資の推薦をする、というものであった。これは日本商工会議所のアイデアであったが、その背景には、東京、大阪、京都などでの共産党系の民主商工会(以下「民商」と略す)の伸長があった。

広瀬によれば、民商の会員は1965(昭和40)年には6万2000人であったが、1971(昭和46)年には17万5000人になっていたという。

民商が組織率を伸ばすことは、商工会議所の組織率が低下し影響力が落ちることだ。商工会議所もまた、自民党と同様に共産党、民商の伸長には頭を痛めていたのだ。広瀬は、当時東京商工会議所の副会頭であった五島昇の談話を紹介している。

《民商だけどね、これに入っているグループでも、共産主義的なイデオロギーから入っているのはごくわずかで、現実の利益、たとえば税金が安くなれば─という期待なんかで入っているのが多いと思うんだよ。その人たちは利益のあるほうに転ぶんで、もしわれわれがやっている無担保無保証の金が出るとなれば、民商を出てくると思うんですよ。》

日本商工会議所の民商対策は、自民党の共産党対策と一致した。総選挙敗北後すぐに昭和48年度予算で無担保無保証の小企業経営改善資金融資制度が発足したのだ。

広瀬は「大蔵省は無担保無保証について、『金融の常識をはずれている。どこが責任をもつのか』と難色を示したが、自民党は『リスクはある。だが、それぐらい民商対策の費用と考えれば安いもの』とさほど問題にしなかった」と書いている。

「マル経」は商工会議所、商工会が推薦するが、最終的な融資の可否の判断は融資実施機関である国民金融公庫(現・日本政策金融公庫)が行う。私は1977(昭和52)年に国民金融公庫に入ったのだが、当時先輩たちは「マル経は金融ではない」と言っていたのを記憶している。

現在では無担保無保証は珍しくなく、むしろ保証人をとらない融資が主流になっている。しかし、当時は無担保無保証というのは画期的であったのだが、金融機関にしてみれば画期的というよりは「無謀」であると思われたのだ。

大蔵省が「金融の常識をはずれている」と難色を示したのも当時にあっては当然であった。その大蔵省を自民党が押しきったのだが、その経緯については、広瀬の『補助金と政権党』には詳しくは書かれていない。