「お母様、まだ一ヶ月ですし、新しいことを学んでいるうちに、あっという間に時が過ぎてしまいました。それに家にいる時よりずっと規則正しい生活をしていますから、体調は万全です。安心して下さい」
「そう。それは何より。でも……」と、たえが何か言いかけると、廊下から、「失礼します」という声が聞こえ、仲居が襖を開けて入ってきた。

たえは、「何にしましょうか」と問われて、「折角だから、一番美味しいものを食べましょう」と、天ぷらの特上を三人前注文した。そして、「忘れないうちに渡しておかないとね」と言って風呂敷包みを開け、杉井が頼んでおいた着替えの下着を出した。

杉井はその一つを手に取って早速着替えた。久々に嗅ぐ石鹸の香り、爽やかな肌ざわり、家庭の温かさはこれだと杉井は痛感した。一ヶ月間着古した汗と埃と馬糞の臭いの染み込んだ下着を渡すと、たえはそれを無言で丁寧に畳んで風呂敷にしまった。たえの瞳にはチラッと光るものがあった。

※本記事は、2019年1月刊行の書籍『地平線に─日中戦争の現実─』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。