第二のイノベーションはPB開発、問屋からメーカーへの転身。

それでも、私は満足していなかった。なぜなら自社のPB商品が大手スーパーに扱ってもらえなかったからである。当社の得意先だけでは販売量は知れていた。ただし、大手スーパーと取引できるのは大手問屋で、当社のような中小問屋は相手にされなかったのである。食品メーカーなら規模は小さくても商品力があれば大手問屋を通じて大手スーパーに扱ってもらうことができた。それなら食品メーカーになろう。メーカーになって大手スーパーに売りまくってやろう。私の胸中はそんな想いで燃え上がっていた。

でも、どうしたら良いのか。人間は窮地に追い込まれると、それを本能的に避けようと良いアイディアが浮かぶらしい。地方の味噌メーカーの営業代行を自社のセールスが受け持ち、大手問屋に味噌メーカーの商品を売込みに行くやり方を思いついた。

商品の表示は「販売者・上野食品株式会社、製造者・〇〇味噌醸造株式会社」とダブル表示にする。この表示は何の抵抗もなく大手スーパーに受け入れられた。メーカー代行になって、いよいよ販売することになった。私は大手スーパーに入る機会を狙っていた。すると千載一遇のチャンスがやって来たのである。

こうしたいと思う心や問題意識を持って全力で努力していれば、その人にチャンスは必ず訪れる。だが、大抵の人は持ち堪えられなくて諦めてしまう。一部の人だけがチャンスを活かして人生の成功者になれるのだと思う。

奇跡の再会に端を発する、怒涛の取引先開拓劇。

ご承知の方は多いと思うが、一九七三年、石油パニックが起きた。中東戦争が勃発してOPECが石油価格を大幅に引き上げた。石油は食品に限らずほとんどの消費資材の原料であり、ボイラーの燃料としても使われている。各メーカーは在庫がなくなり次第、高い石油を使わざるを得ないので、次々と値上げを発表した。

慌てたのは消費者である。大幅値上げされてはたまらないので、値上げ前に片端から買いだめを行った。スーパーでは加工食品とトイレットペーパーなどの日用品コーナーに行列が出来、それらの商品はあっという間に店頭から消えた。

味噌・醬油も例外ではなかった。大豆も米もボイラーを使って蒸煮しなくてはならないし、詰めるナイロンやビニール袋も石油を原料に作らねばならない。大手スーパーや中小の小売店で品切れが続出した。特に大手スーパーは権力を武器に、品切れを起こさないように問屋やメーカーに余分に発注してきた。何せ店頭に並べればすぐ売れてしまうのである。

そんな時、前述の正田醬油の営業から私のところに重要な朗報が舞い込んで来た。池袋に本社がある東武ストアから正田醬油の営業に「どこか味噌を大量に供給できるメーカーを探してくれ」との依頼があったという。この話を聞いて、以前から大手スーパーに売込む機会を狙っていた私は、すぐに飛びついた。

早速、翌日アポイントを取り正田醬油の営業も同行のうえ東武ストアの担当課長を紹介してもらった。各スーパーでは味噌に限らずあらゆる加工食品が品不足になり、仕入担当者にとって頭の痛い問題であった。当然、味噌も品不足気味で仕入れの量を確保することが喫緊の課題で、あらゆる手を尽くして供給先を探していたのである。当社に話が来たのにもこのような背景があった。私は東武ストアの仕入担当者に「当社は信州味噌メーカーの販売代行会社で味噌の供給は十分できる」旨を説明し納得してもらった。

しかし、ここで大きな問題が発生した。当社には東武ストアの口座がなく、新規の口座を開設するのは大変で時間が掛かる。手っ取り早く供給するには、東武ストアと取引している問屋を通すのが一番良い方法なのだが、当社には大手問屋との取引がなかった。東武ストアの取引は大手食品問屋ばかりで、その中に当時、有名な国分株式会社があった。国分と取引できれば他の大手スーパーにも入ることができると思い、同社と取引しようと勝手に決めた。

早速、電話帳をめくり国分の担当者にアポイントを取り、面談まで漕ぎ着けた。東武ストアが当社の味噌を欲しがっている事情を話したが、その前に当社が国分と新規に取引できる資格のある会社なのか、先方の担当者は懐疑的だった。無理もない。本来はメーカーと直接取引を行い商品の販売をするわけだが、当社が販売を代行するので、メーカー直になっていなかったのだ。商談は暗礁に乗り上げ、担当者は思案の挙句、上司を呼んだ。その時、予期せぬ事態が起きた。いま考えたら奇跡と言ってもおかしくない再会があったのである。上司が出てきたとたん、お互いにアッと声を上げて驚いた。

「上野さん、どうしてここにいるの?」

「掛札さんが仕入れ担当課長なのですね!」

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『復活経営 起業して50年 諦めないから今がある』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。