コールドチェーンの実態調査

一九八八(昭和六三)年二月三日、ポリオワクチンを保存するための、いわゆるコールドチェーン(Cold chain)調査の目的で、コインバトールから同じくタミル・ナードゥ州の内陸部に位置する、サレム地方に向かいました。

地図の上では、およそ一五〇キロメートルの道程でした。ロータリークラブの計らいで提供していただいた車の旅です。

いかにも実直で人の良さそうな四〇歳代の運転手は、出発間もなく「少々遠いところなのでハイウェイで行きましょうね」といってスピードを上げました。

我々の感覚では、高速道路ならせいぜい二時間ほどの距離ですが、出発して一時間経ってもハイウェイらしき道路には出ないのです。日本から持参した電子温度計では、車内では優に三三度を超えています。車のクーラーはまったく用を足さない蒸し暑さで、車の窓を開けると赤土のもうもうたる埃が舞い込んでくるといった状態です。

思いあまって運転手に、

「ハイウェイまでにはまだ距離があるの?」と尋ねると、

「今走っているところがハイウェイですよ」という返事。

恐れ入った!! と同時に、呆れた!!

ハイウェイを悠々と闊歩する聖牛の群れ

沐浴(もくよく)をする巡礼者で埋まっている河川を走り抜き、あたかもアフリカ映画に見られるようなサバンナの中を走っていると、時には数頭の、またあるときは数百頭の牛の群れが、ハイウェイのど真中を悠々と闊歩(かっぽ)しています。その都度、車はしばしの停車を余儀なくされる始末でした。

コインバトールを出発しておよそ二時間も走った頃、路傍で無残にも交通事故で頭部から大出血をし、意識を失っている老いた農夫らしき人に出くわしました。取り巻くように数人の男たちが、手助けをするのでもなく、ただ茫然と見ています。行き交う車の誰一人として、救助の手を差し述べる者がいません。

そこで私が、職業意識も手伝って車を止めて応急処置でもと思い、横たわる老人の近くに駆け寄ると、慌てて運転手が、

「旦那!! 目的地まで一日がかりだ、すぐ車に引き返してください」

と私の肩を叩くのです。

あまりにも大きな彼の声にびっくりして車に戻ると、これまで以上の猛スピードで走りだしました。

しばしの間、重苦しい空気が車内で続いていましたが、程なくして運転手が口を開きました。

「旦那、危ない目に遭うところでした!!」

バックミラーに映った彼の表情は硬く、真剣そのものでした。

目には目を、歯には歯を、という掟(おきて)がまだ厳然と残っている土地柄なので、現場に止めた車の誰かが、掟に従って災難に遭うことがしばしばあるという説明でした。

ハイウェイを悠々と闊歩(かっぽ)する牛の群れにしても、この話にしても、我々の常識では律することのできない現実が、あまりにも多すぎるお国柄であることを改めて実感した次第です。

さて、話が横道にそれましたが、汗と埃(ほこり)にまみれた六時間にも及ぶ車の旅で、やっと目的地セーラムに到着し、P・V・プロショータマン氏の出迎えを受けました。

日本を出発する前に、どうもポリオ・ワクチンを保管するためのコールドチェーンの温度管理が適正でないという情報があり、その実態を調査することが、この地方を訪ねた大きな目的です。早速、コールドチェーン冷凍庫の始動からワクチン投与現場の末端までの、温度の追跡調査に取り組むことにしました。

氷点下二〇度の機能を有するルームタイプ(Room-type)の冷凍庫は、南インドではマドラス、マドライと、この地セーラムに設置されているということでした。

そこでまず、当地の保健所にあるルームタイプの冷凍庫を、日本から持参した温度計で逐一チェックしたところ、最も基本となるべきこの種の冷凍庫が摂氏八度から四度で、肝心の氷点下の数値を示さないのです。念のため冷凍庫から数個をサンプリングしたところ、案の定、冷凍すべきワクチンがすでに液状になっていました。

こうなると、果たしてワクチンの効能が保たれているのか、大いに疑問がありました。

次いで、ボックスタイプ(Box-type)の中型冷凍庫はどうだろうかと調べてみました。こちらはスイス製およびドイツ製で、規定の温度である氷点下一七度に保たれていて、まったく問題ありません。

ポリオ・ワクチンを大量に保管する、コールドチェーンの基本でもある大型のルームタイプの冷凍庫が規定の温度を維持していないことは、大いに問題でした。

日本出発前の危俱(きぐ)が、まさに的中したわけですが、この冷凍庫はインド産の製品であり、何らかの政治的意図で設置されたことが予測されます。

また、冷凍庫の機能がたとえ改善されても、インドではエネルギー政策の一端として、一日に一定時間は意図的に停電をさせることもあり、ポリオ・ワクチン保管上の観点からは多くの問題を抱えているといえます。

常温で管理できるポリオ・ワクチンの開発が、この地方においては特に急がれることを痛感し、WHOへ報告することにしました。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『 ひたすら病める人びとのために 上巻』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。