笑い声が起こった。

「その二」再び場内はしんとした。

「食えよ。交われよ。旺盛に生きよ」

今度は爆笑が起こった。

「その三。人生とはたとえ話の体系である」

今度は誰も笑わなかった。

ジャンパーの男は、隣にいた老婦人に小さな声で話し掛けた。

「いつもこんな調子なんですか」

老婦人はにこにこした。

「あんた、初めてなの?」

「ええ」

「華水教は宗教ではない、これが聖書の冒頭の言葉なのよ。次がね、何とか言う文学者の言葉からひいたものらしいんだけど、食えよ、交われよ、旺盛に生きよって言うの。まあ、見ていらっしゃい」

すると、壇上から井沢師が呼びかけた。

「私たちの教義は詰まる所この三つに尽きています。しかしながら、この三つを理解することは実は容易なことではありません。例えば、キリスト教の聖書は、人生とはたとえ話の体系であると言う、この三つ目の教義を満たしております。そこには様々な暗示的な話が載っており、二千年経った今でもなおその価値を減じるものではございません。しかしながら、仏教もキリスト教も新興の諸宗教でさえ、二番目の点に関しましては、何も言っていないのであります。そのために」とここで井沢師は声を張り上げた。

「生暖かく豊かな日本の中で、あらゆる宗教はうその宗教となってしまいました。貧しさや、餓えや、伝染病が科学によって駆逐されつつあり、平和な暮らしを謳歌した日本で、餓えや貧困や戦争と戦えと若者に呼びかけて、それが何の意味を持つものでしょうか。若者たちに、日本を離れて餓えや貧困がまだ根絶されていない異国の地に赴けとでも言うのでしょうか。

私は慈善活動を否定いたしません。世界の貧困を根絶することは大いに結構であります。しかし、日本の若者の苦しみはなくなったのでしょうか。若者だけでなく、老人やサラリーマンや主婦の苦しみはなくなったのでしょうか。

不思議なことに、豊かな時代であればこそ、自らのエネルギーに身を焼かれると言う苦しみに直面している人が、たくさんいるのです。華水教は彼らの味方であります。無心になって自らの持っている人間の業火に身を焼かれて初めて、私たちは大正時代に生きた大文豪が最後に著した尊い言葉に素直に耳を傾けることが出来るのです。

そこで、もう一度皆さんと一緒に繰り返しましょう。

食えよ」

「食えよ」と四万人の声が唱和した。

「交われよ」耳を劈(つんざ)くような大声が唱和した。

「旺盛に生きよ」

男は東京ドームの底から競りあがってくるような巨大な人間のうめき声を確かに聞いた。それは恐ろしくグロテスクで、しかし感動的な一瞬だった。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『百年後の武蔵野』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。