吉良上野介義央(よしひさ)は、清和天皇の系統で足利氏の祖清和源氏足利義康の末裔である。義康の孫義氏が承久三年(一二二一)、承久の乱における戦功により三河守護となると義氏の子長氏は幡豆郡西条(愛知県西尾市)に築城すると、同地区内の八ツ面山が雲母(うんも・きらら・きら)の産地であったことから吉良(きら) を名乗る。

その後、吉良家は東条と西条に分れ、西条吉良の流れを汲む義央は足利義康から数えて十七代目当主にあたる。妻が米沢上杉城主上杉綱勝の妹三姫であったことから、寛文四年(一六六四)、綱勝が無嗣子のまま二十七歳で急逝すると、上杉謙信公以来の名門上杉家は改易の危機に直面するが、綱勝の舅で初代会津城主保科正之(三代将軍徳川家光の異母弟)が仲介し、吉良の長男三之助(二歳)を急遽上杉家の養嗣子として申請し認められている。

この時、上杉家は三十万石から十五万石に減封されるも改易を逃れ辛うじて存続。三之助が米沢上杉家五代目城主上杉綱憲となると、綱憲の次男で吉良にとっては実孫にあたる義周(よしまさ)を吉良家の養嗣子として迎え入れ吉良家を継承させている。徳川幕府では四千二百石の高家肝煎(旗本)で官位は従四位上左近衛権少将である。

浅野家の五万石に対して吉良家は四千二百石と両家の石高には大きな隔たりがあるが、幕府内における地位や序列を示す官位については、吉良の従四位上に対して内匠頭は従五位下、官位にはそれぞれの位に正・従があり、吉良と内匠頭の官位の間には従四位下・正五位上・正五位下・従五位上と四つの官位が存在し、吉良は内匠頭より五階級上位に位置する。そこには石高以上の格差が存在している。

また、今回の一連の式典における両者の立場を確認しておくと、例えて式の主催者は将軍徳川綱吉、式全体の総責任者は勅使饗応役である浅野内匠頭、吉良は式典全体を円滑に運営するためのディレクター的存在で儀礼作法面での指南役が主な役割である。吉良が式典の責任者であったかのごとく誤認され、一部には責任者の吉良が内匠頭に誤った指示を出すなど、式典に悪影響を及ぼすことをするはずがないとのご指摘があるが、その認識は誤りである。

ところが、幕府は官位任命権を持つ朝廷との間に日頃から様々な行事があり、常に神経を尖らせていたことから、実際には有職故実の専門職である高家が実質的に式典を司っており、大名が朝廷の関わる式典の責任者に任命されると早速担当の高家に対してそれなりの進物を添えてお伺いを立てるのが一般的であった。

浅野家に伝わる『浅野家家秘抄』によると、内匠頭は饗応役拝命に際して老中秋元但馬守より、例年勅使、院使への御馳走が重くなって来ている様に聞いているので、吉良殿と打合わせて、なる可く万端軽く調える様にとの注意があったと記されている。

また同じく浅野家に伝わる『冷光君御伝記』によると、浅野土佐守長澄先年御饗応役御勤めなされ候御格式、御内証まで御借用御下しらべ相い調え候につき、上野介殿へ御伺いなされ候処、段々宜しからざる御仕方共これあり、御不快に思召され候事共多くこれ有りとの記述がある。

これらの史料から、内匠頭は老中の進言を真摯に受け、吉良からの指図を受ける前から妻阿久里の実家備後三次浅野家が五年前に同役を勤めた際の資料などから、それぞれの費用を割り出し、式典全体の経費節減を図ろうとした。ところが、幕府と朝廷との取り持ち役を主な生業とする高家側としては、例年通り朝廷方を最大限にもてなそうとの思惑があり、傍線部にあるように運営面において内匠頭と吉良との間で徐々に不和が生じていったことが分かる。

このことから遡ると、内匠頭が吉良の帰府を待って直ちに吉良邸を訪問した時からすでに両者には禍根が生じていた可能性がある。

三月十日、勅使院使一行が品川宿に到着すると、その日の晩から内匠頭は勅使院使らの宿舎となる大手門前の伝奏屋敷に詰めている。翌日内匠頭に持病の痞(いか)えが発症し体調の不快を訴えるが『浅野家家秘抄』によるとその原因として、この度、御伝奏役儀仰せつけられてから今日迄、昼夜御精力を尽し遊ばされた故とあり、藩医寺井玄渓が内匠頭に薬を差し上げ休息を勧めている。

ただでさえ勅使饗応役拝命後の日々緊張の度合いが増すなかで、内匠頭は持病の痞えとも戦いながら自らの役目を精一杯こなそうとする痛々しい姿が浮かび上がる。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『忠臣蔵の起源』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。