美紀が高校を終えて就職し結婚するまで智子と一緒に暮らしていた頃は、店の終わるのが遅かろうが早かろうが必ず朝六時には朝食を摂った。朝六時前になると階下から「美紀〜、時間だよ〜」と智子の声が掛かり、美紀は智子の声を目覚まし代わりに布団から起き出しては身支度を整え朝食を摂って学校や職場に出掛けたのだった。夜の遅い仕事で疲れや眠気が無いわけはなかったのだろうが、美紀は智子の寝ている姿を見たことがなかった。

美紀は、生活のため夜遅くまで働く智子の苦労を身近で見てきた。高校受験を控えた中学三年生のときも階下から漏れてくる漁火のカラオケと嬌声に閉口し、学校では友だちから水商売を揶揄されることもあったが、智子の苦労を思うと不満めいたものは口に出すことはできなかった。

美紀の高校は、一時間半ほど掛けて通った松阪市にある普通科の県立高校だった。卒業すると漁師たちが出入りする地元の漁業協同組合に就職した。

美紀は少し生臭いけれど魚の匂いが嫌いではなかった。それは、決して母の前では言い出せなかったが小さい頃に亡くなった父親の匂いだったからだ。

中学、高校とソフトボール部に所属していた美紀は、母親に似て華奢に見える体つきをしていたが体力があり、その上事務処理もそつなく熟し漁協では重宝がられた。そんな美紀を組合長は可愛がり水産会社で事務を務める息子の嫁にと望んだ。

小さな海辺の町で生まれ育ち、スナック「漁火」で働く美紀には小学生の頃の忘れられない思い出があった――。つましくも明るく暮らす人々の交流と人生の葛藤を描いた物語。
※本記事は、2020年11月刊行の書籍『浜椿の咲く町』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。