3「南至邪馬臺國女王之所都水行十日陸行一月」

水行(船)で十日、ここから歩いて行くなら陸行一月ぐらい掛かる。よって邪馬台国は海でも行けるが、歩いてでも行ける場所と判断できる。筆者は「陸行一月」歩いたわけではなく、もし歩いたとしたら、小さな国々を何カ国も横切らなければならないわけで大変面倒なことが考えられ、通常であれば水行が当たり前の手段であるがゆえにおおよそこのくらい掛かるであろうという表示と考えられる。

「水行」とは、海岸に沿って航行すること。

4「南至投馬國水行二十日」

投馬国と邪馬台国は「末盧国」から見て同じ方角で表され、ここを起点に船で行く共通点が二つある。これがヒントとなり、邪馬台国は投馬国の彌彌津まで半分の距離に相当し、水行で到着できる位置に存在する。

投馬国の比定地は、旧日向国児湯郡に都萬神・都萬神社があり、現在の宮崎県西都市妻町である。官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)という。宮崎県に美々津・耳川があり、官名と類似している。

投馬国まで行くのに水行のみであるのは、末盧国から陸続きであるが、到底歩いて行く距離でないからである。

両国とも船を利用して、穴戸(関門)海峡を南下して暫く行くと古代の国際港・草野津(かやのつ)(現在の行橋市草野)の湾奥に船を進めると、邪馬台国の都に到着である。港から数キロの所が都城である。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『邪馬臺國は豐國にあり 歴史学と考古学から読み解く⽇本古代史』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。