「戻ってきてくれないか」

対岸の彼女にぼくは呼びかける。心をくだく思いで返事を待つ。

けれど、彼女はうつむいたきりである。白い顔を覗かせるだけで、その表情はわからない。なのに、こげ茶色のワンピースをまとうそのすがたが、きりきりとぼくの胸を締め付けるのだ。

「もう、おそいの」

ふいに、ぼくの耳に届く。そのちいさなつぶやきに、ぼくははっとする。

もうおそいのーーそれは、たったそれだけの言葉にもかかわらず、取り返しのつかない現実をぼくに突き付ける。たとえば、愛する人が不治の病に冒され死の床に臥(ふ)しているときのような。たとえば、愛する人が、自分ではない別のだれかとの人生を選んでぼくから去っていくときのような。

彼女はいま、現にぼくの目の前にいるというのに、もう二度と手の届かない存在になろうとしていることをぼくは知る。それでも一縷(いちる)の望みを託してぼくは言う。

「考え直してくれないか。もういちどぼくにやり直させてくれないか」

しかし、彼女は首を振り、諭すようにぼくに言う。

「おそいの。手後れなの。私はもうここにはいられないの。あなたとやり直すことはもうできないの」

ちがうんだ。と、ぼくは否定する。

「聞いてほしい。ほんとうは君のことを……」

そう、言いかけたところで目が覚めた。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『シンフォニー』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。