1 沖縄セントラル病院の開設

順調に進んだ病院建設

 

クリニックから病院への拡張を目指して近隣の家屋の買収交渉を進めたわけですが、仲介をしてくれた業者の働きで、円滑に土地の購入ができました。土地確保のめどが立ったところで、病院建設の基本案を作成し、大手の建築設計会社に依頼することにしました。

日本本土から遠く海で隔絶された沖縄県は、資材物質の搬送にもコストが高くなります。当然、内地に比べてすべての面でハンディを背負っての病院建設でした。それに加えて、電気系統を中心にすべての専門技術者も、大半が内地から来てもらった上での建設工事でしたが、おかげさまで予定通りの工期で上棟式を迎えることができたことには感謝感激でした。

 

人材がいない

第二次世界大戦で戦況が徐々に悪化し、我が国の最後の砦(とりで)として沖縄が悲劇の島と化してしまいました。生きとし生けるものすべてが、戦いの果ての藻屑(もくず)と化し、二十数万余の人々が犠牲となりました。

本島中部に上陸した連合軍兵士が、敵対する軍人のみならず、民間の婦女子もろともに狭い南部の地域に追い込んでいきました。艦砲射撃や銃撃の犠牲となり、飢えた幼い子供たちは、栄養失調のうちに命を失うことも多々ありました。うら若い婦女子たちは、敵兵からの辱(はずかし)めを憂い、追いつめられた揚げ句、数十メートルの断崖から投身自殺をしています。さらに、多くの住民や学徒隊の集団自決があり、数カ月に及ぶ沖縄における地上戦の悲惨な状況は、現地で実体験された人々にしか理解できないものです

広島や長崎での原爆投下は、瞬時にして沖縄県民同様に多くの犠牲者を出し、全国民の注目の的となり、戦争による悲劇の実態を目の当たりすることができていますが、前述の如く、長期にわたる戦いによってもたらされた、現場における苦しみ、悲しみは、戦いの現場にいる者のみが知るものです。終戦後七十有余年、平和一筋に暮らしてきた国民は、いま一度過去と足元を見直す時期が到来していると私は考えます。

このように、すべてが灰燼(かいじん)に帰した沖縄では、何よりも人材が不足していました。建設作業員の確保も大変でしたが、医療従事者となると、ほとんど枯渇している状況でした。今では、日本中、至る所でこうした人材不足の状況が生まれていますが、当時の沖縄県の状況はその比ではありません。

 

人材を求めて東奔西走の日々

地域住民のニーズに応えるべく、複数科の標榜(ひょうぼう)を目標に病院の設計を進める傍ら、医師などの専門職の招聘(しょうへい)に奔走いたしました。まず、福岡県に出向きました。タクシー会社に交渉の上、今でいうレンタカーとして借り切り、九州各県に散在する大学の医局を訪ね、医師派遣の交渉をしました。しかし、いずれの医局も未開発の沖縄には大いに関心はあるも、当該地の病院への派遣にも医局員不足の状況にあって、「あと二~三年待ってほしい」という返事ばかりでした。

手紙も、もう日本全国に発送しましたが、いずれも「沖縄県での医療に興味はあるが、今はそれに振り分けられる人員がいない」という返事ばかりでした。

さあ、どうしようか。病院ができても医師がいないのでは、標榜科も掲げられません。そこで、最後の手段として外国へ目を転じることにしました。戦前には我が国の施政下にあった台湾・朝鮮には、日本の医師免許証をお持ちの方がいるに違いないと思ったからです。

そこで、沖縄から地理的に最も近い台湾の医師を招聘すべく、活動を始めました。

 

沖縄のニーズに合った診療科目を整える

その頃の沖縄県では、耳鼻咽喉科、眼科、小児科のニーズが高く、その専門家を招いて病院を出発させたいと考えていましたから、それぞれの科の先生を迎えようと、台北市医師会に紹介してくださるように何度となく訪問することになりました。

おかげさまで運良く、まず耳鼻科医が見つかり、次いで小児科医、さらに眼科医をわずか半年のうちに招聘することができました。そこで、計画通りに一九七八(昭和五三)年九月一日、「沖縄セントラル病院」は、創業の記念すべき日を迎えることができたのです。

当初、九七床で開院し、二年後には一三七床へと増床しました。専門九科目で、地域の皆様に医療を介して奉仕できる体制を整えることができたのです。

2 頭部CTスキャン装置の導入

沖縄中央脳神経外科の開設以来、患者さんの治療ニーズに応じた医療機器の整備は、私の念願でした。一九七八(昭和五三)年、まず専門とする頭部の検査のために、第一世代の頭部CTスキャンを県下第一号として導入し、頭部の病気の診断治療に役立てることができました。

【第8回】でも述べましたが、私が専門とした定位的脳手術では、患者さんの脊椎(せきつい)に針を入れて脳髄液を抽出するという処置が必要で、患者さんの苦痛は計り知れないものがあります。それを何とかしたいと思っていた矢先に、この頭部CTスキャンが出ましたから、飛びつきました。

これで、あの危険で術者にも負担をかけ、患者さんにも苦痛を負わせることなく検査ができて、治療にも役立てることができるようになりました。

3 リハビリテーション科の新設

沖縄中央脳神経外科を開業してから五年間の診療で、建築現場での頭部外傷や、交通事故などによる四肢の運動機能障害の患者さんを多く治療してきましたが、その後遺症によって苦しむ方々が多くおられました。

脳や脊椎に損傷を受けた場合、運動機能が麻痺(まひ)して、思うように手脚が動かせなくなるわけです。こうした運動機能を回復させるためには、動かす訓練を継続的に行う必要があるわけですが、やみくもに行ってもダメですし、一人ではとうてい気持ちが持続しません。

そのために必要なのがリハビリテーションです。

沖縄県内にはそうした施設が皆無でしたから、私は、脳の病気や損傷から命を救うことはできても、失った機能を取り戻させてあげたいという気持ちから、当時、まだその言葉さえ一般に認知されていない“リハビリテーション”を始めることにしました。幸いなことに、北九州市のリハビリ大学からPT(理学療法士)の資格を持っている方を県下第一号として迎え入れることができたので、リハビリ科を新設しました。

同時に、後遺症に悩む患者さんのための〝リハビリ友の会〟を一九七八年に結成し、ふるさとの糸満をはじめ、各地で普及活動を行いました。

一九七八年に生活保護法指定病院の登録、一九七九年には労働災害保険指定病院の登録ができました。

 

国際騎士機構アジア地区第一号(ナイト病院)称号授与

以来、今日まで約五年間を一つのスパンとして、医療活動を進めてきておりますが、敗戦後の厳しい環境の中での医療を推進し、地域の方々に貢献してきた功績で、沖縄セントラル病院は、一九八〇(昭和五五)年、国際騎士機構アジア地区第一号「ナイト病院」の称号を授与されました。

“リハビリ友の会”の野原会長(右端)と
 国際騎士機構勲爵士(ナイト賞)の受賞式典にて