近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ、三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。

声楽指導

(一)山田耕作たち

環は東京音楽学校の研究生のかたわら嘱託として予科の声楽授業を受持っていた。彼女が初めて教員に採用された明治三十七年九月時に入学したのが山田耕作らで彼は環にとって第一回の教え子ということになる。しかし、明治十九年生まれの耕作からみれば環は二歳年上のお嬢さんというところで、教壇上の藤井先生は老成た男生徒の目には魅惑的に映ったに違いない。

生徒数は男子十四名、女子十七名計三十一名とまとまりのいい人数で、教師と生徒が間近に相対する教室風景であった。三十一名中十二名は本科に進級できない留年の生徒である。特に年嵩の大屋という生徒は成城学園から幼年学校に進み、音楽学校へ入ったという変わり者で、身長は六尺近い大男、体格も堂々としていた。

環が範唱するとこの大屋が「あら、堪らないわねェ」などとしなを作って褒めそやす。「大屋さん、歌ってごらんなさい」と指名されるとさも嬉しそうに立ち上がって四小節か八小節を歌ってみた挙句に「歌おうと思っても声が出ないんであります」と軍隊口調で答える。

こんな調子で気の毒に気の優しい環先生は終に泣き出すことも一再ではなかった。しかし、陰ではみんなタマちゃん、タマちゃんと藤井先生のファンだった。(56)初めての生徒となると印象深いもので環も晩年山田さんはとても茶目で餓鬼大将になって、先生の私をとても困らせました。

尤も山田さんとは年が二つしか違わない。いくら女の方が早く大人になるとはいえ、二つ違いの兄さんなら粋なのだけれど二つ違いの生徒では手古摺らされるのはあたりまえだったかもしれませんね。(57)と、苦笑している。この年の明治三十八年度に学業不振のために退学を命ぜられた生徒は七人であった。

(二)素質について

次回、環の声楽指導について当時の談話からその模様を授業風景におきかえて記してみる。(58)

(56)山田耕筰『耕筰楽話』八七〜八八ページ(清和書店 昭和十年刊)

(57)前掲書注53 二四八ページ

(58)藤井環子談「音楽と体質」(時事新報文芸週報第十二号)明治三十九年八月五日号一~二ページ

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。