10 中央脳神経外科の開業

当時の沖縄県は、医療に携わる人材が少ないという状況にありましたが、幸いにして、看護職員、検査関係技師、事務職員、厨房スタッフなどの協力のもと、総勢二三人で賑やかな門出を迎えました。周囲には高層の建物がないところでしたから、屋上からの眺めは最高でした。

そこで、屋上を開院セレモニーの会場としました。開院セレモニーには、沖縄県、那覇市の関係者の皆さん、沖縄県医師会会長、さらに久留米大学の恩師である脇坂教授ご列席のもと、盛大に催すことができました。

開院当初から予想外の患者の受診でした。早朝八時三〇分から外来診療を始め、夕刻に外来が終了すると、その後、手術の時間です。さらには近隣のふるさと糸満までの往診と、多忙な毎日が始まりました。

開院から四年を迎えた頃には、その多忙さはピークとなっていました。外来廊下は、立錐(り っすい)の余地もないほど患者さんが大勢おられました。時には、玄関外の階段まで順番待ちの行列ができて、通行にも支障をきたすほどでした。

晴れた日には玄関前の広場に茣蓙(ござ)を敷いて、そこに座って待っておられます。診察待ちの患者さんがいるわけですから、悠長に食事など取っているわけにはいきません。スタッフも昼食抜きで対応に追われるほどの多忙な日々でした。一日の外来患者数の最高記録、七五二人の金字塔を達成したのもその頃です。

この間、沖縄県は、祖国復帰後、内地に合わせてさまざまな法の導入が行われていました。医療分野でも内地標準に合わせるため、当時はまだ厚生局といっておりましたが、厚生省が定める診療報酬レセプトに合わせるための点検委員に選ばれて、毎月数日間はそれに駆り出されました。

また、県内に医療機関の少ないこともあって、那覇市内の先生方とともに臨番制で夜間診療所に赴き、救急患者への対応を余儀なくされて、朝から晩まで休む間もなく、医者の不養生とはまさにこのことだと、お互いにこぼしながら務めていました。こうした日々を乗り切れたのも、当時のスタッフの皆さんの献身的なご助力のおかげだと思います。

日本に復帰したとはいえ、沖縄県は、本土の皆さんが享受した高度経済成長の恩恵に浴することはなく、復帰した時期はオイルショックによる景気減退の中でしたから、日本政府も沖縄だけに力を注ぐというわけにもいきませんでした。

復帰時には、在日米軍の基地がなくなることを期待していましたが、基地はそのままでの復帰でした。県民には大きな落胆と憤りを残し、それは今も尾を引いています。インフラ整備は、ほとんど手つかずで、医療関係の整備も不十分でした。

私はクリニックの開業当初から“ひたすら病める人びとのために”を標榜していましたが、その考えに賛同して集まってくださった開業時のスタッフの方々も、沖縄に医療の新風を吹き込もう、という熱意でもって業務に専心してくださり、この難局を乗り切れたのだと思います。

 

「沖縄中央脳神経外科」開院二年目のスタッフと

 

ストレス発散のために

クリニックを開設して五年間は診療に明け暮れていました。そのため、私的な趣味である油絵を描くための筆を手にする余裕もなく、ストレスは溜まる一方でした。

たまに時間が取れそうだと思っても、やれ委員会だ、やれ県のお役人との打ち合わせだ、医師会の会合だ、と診療以外の仕事も増える一方で、ストレスはもはや破裂寸前という状態でした。

辛(かろ)うじてストレスを発散し、ガス抜きをする機会といえば、休日を利用した月に一度のゴルフでした。那覇市郊外には良いゴルフ場が少ないため、石川市や恩納村(おんなそん)まではるばる足を運ばねばならず、高速道路もない時代でしたから、早朝四時に出発して、医師仲間や日頃からお世話になっている薬業問屋の皆さんと、楽しいひと時を過ごすことができました。

ゴルフ場まで行くのはいいのですが、帰りは少し辛いものがあります。本土の皆さんは長距離移動でゴルフ場まで行かれるそうですが、そういう方々には、私の思いも少しはわかっていただけると思います。

せっかく楽しくプレーに興じているというのに、時にはラウンドの途中で「救急患者来院」との電話があり、やむなく同伴の皆さんには迷惑をかけながらも帰院せざるを得ないこともあり、医師としての使命感と、この職業の無常を感じながら、クリニックまで車を飛ばしたものでした。

 

父母に新築の家をプレゼント

思えば、獣医師を志して上京し、シュヴァイツァー博士の著作集に触れたことで、急遽(きゅうきょ)方向転換して医師を志し、獣医学部を二年で辞めるときには、温かくそれを応援してくれた父と母。

二年間の浪人生活の末に久留米大学に入学し、九州各県の病院に次々に出向して、なかなか実家にも帰れず、ようやく沖縄に帰ってきても、診療はもとより沖縄県の医療環境充実のために奔走する日々を送る息子を、温かく見守ってくれた父と母。

一九七六(昭和五一)年、終戦後の沖縄の社会環境、経済状況の極めて厳しい時代に、獣医師として地域の発展のために奮闘した父と、それを陰ながら支え、七人の子供たちを育て上げてくださった母のために、せめてもの恩返しとして、ふるさと糸満の屋敷地を整え直して、八〇坪の洋風家屋を新築することにいたしました。

 

沖縄の医療のさらなる発展を目指して病院設立へ

一九七三(昭和四八)年のクリニック開業以来、瞬く間に五年の歳月が過ぎていきました。しかし、脳神経外科単科の医院で、地域医療に貢献するというところまではいっていません。

沖縄に帰ることを決心したときの思いを実現し、沖縄の今後の医療事情を考えたとき、そのニーズを満たすためには診療科の増設と病院への転換が必要だと決心して、クリニックに隣接する数軒の家屋の買収を進めることにしました。このクリニック「沖縄中央脳神経外科」の建設を決めたとき、用地として取得した場所は、もとはガラス工場でした。

あの戦争末期の地上戦によってすべてが灰燼に帰した沖縄でクリニックを開設するというのは、内地での新規開業とは比較にならない苦労の連続でした。米国の管理下にあった琉球政府の施政権下にあり、すべての法制度が日本国内法とは異なり、将来を見越した都市計画もなく、那覇は奇跡の国際通りのみで、網の目のような狭い路地に囲まれたバラック造りの家並みが密集していました。

開業のための土地の選定で苦労しましたが、運良く那覇市与儀の一角にモクモクと煙を吐いているガラス工場があって、そこが空くということでしたから、購入してクリニックの敷地にしました。そのため、開業当初は隣に数軒の家屋があり、そこを買収しなければならなかったというわけです。

当時の沖縄県では、まだ公的病院以外に私立の病院は少なく、その大きな原因は医師をはじめとした専門職の人材不足がありました。全県下の医師の数が少なく、看護師や医療技術者も有資格者が少なく、沖縄の医療環境は内地に比し、極めて劣悪な状態でありました。

それでも、クリニックをしっかりとした病院へと発展させないといけないという思いからこの計画を進めることにしましたが、それに関しては、【第11回】で述べることにいたします。

※本記事は、2019年12月刊行の書籍『 ひたすら病める人びとのために 上巻』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。