9 故郷、沖縄へ

沖縄への帰郷、それは苦難のスタートだった

去る第二次世界大戦で、生きとし生けるものすべてが灰燼(かいじん)に帰し、米軍占領下にあった沖縄は、米軍の支援を受けながら細々と医療活動をスタートしていました。

ある日、県立那覇病院のT院長から、沖縄の医療の現状と、特に脳外科医の不足を嘆かれ、ぜひ帰沖してほしい旨の便りをいただき、一~二ヵ月思案の上で帰沖を決断しました。

T院長からのお便りをいただいたときと、すでに述べましたように、久留米大学病院医局への帰局願がなかなか受け入れられずに鬱勃(うつぼつ)としていた頃が一致したことから、退局願を提出して沖縄へ戻ることを決心しました。

大学受験のために白山丸で沖縄を離れ、以来、結婚式で帰ってくることなどはありましたが、沖縄に根を下ろすという決心のもとで帰ってきたのは十数年ぶりのことでした。一九七一(昭和四六)年八月、那覇空港に親子で降り立ちました。これからは、この地で地域医療の発展のために尽くすのだ、そういう決意が漲(みなぎ)っていました。

ところが、鹿児島発の船便で送り出した家財道具と薬剤の数々が、那覇港に数日後に陸揚げされたものの、折からの港湾労働組合員のストライキのために、引き取りもできないことになってしまったのです。

丸一〇日間も炎熱酷暑のテントの中に放置された状態で置かれており、薬剤はすべて使用不能となったために放棄処分を余儀なくされました。しかも冷蔵庫や扇風機は行方不明になっていて、帰沖第一歩から大きな誤算となりました。

両親の計らいで那覇市近郊の借家に落ち着き、就職予定の県立那覇病院を訪ねることにしました。T院長と面談し、院内の案内をしていただくと、これまた第二の大きな誤算がありました。

脳神経外科開設のために必要な外来、手術場の機材のないことに唖然としました。

「先生、何で私を呼んだのですか?」と院長に尋ねました。「機材がそろっていて、すぐにでも仕事ができると思って、私は帰ってきたんですよ」「何もなくて申し訳ない」T院長は、そういうだけでした。

予算の関係上、直ちに対応が困難であることの説明を受けました。用意するのに一年はかかるだろうからということで、しばらくは市内の泉崎にある民間病院(泉崎病院)を紹介されました。

泉崎病院は熊本大学の関連病院でした。内科、外科、および脳神経外科を標榜し、戦後間もなく設立された地域の中核病院でした。先に赴任されているS医師と一緒に、脳外科医として二年間の契約で奉仕することとなりました。

 

自らの脳外科専門医院開設へ

県立那覇病院では、脳外科を開設するための準備は全く進んでいませんでした。二年が経ち、泉崎病院との契約も切れるため那覇病院へ移ろうとしても、まだ何一つないということでした。それは後から考えます、と。致し方ないことだったのかもしれないと思っています。

というのも、この頃の沖縄は、一九七一(昭和四六)年に沖縄返還協定が調印され、その後、一九七二(昭和四七)年五月一五日に日本へ復帰するという、大変な時期にあったわけです。琉球政府は解消され、沖縄県という行政単位に変わること、それと同時に、県議会選挙も実施されるなど、県の行政も混乱と多忙を極め、たとえ県立病院とはいえ、そこまで手が回らなかったのだろうと思います。

私としては、わざわざ院長直々(じきじき)の招聘(しょうへい)でもあり、沖縄の地域医療の今後を背負って立つという気持ちで沖縄に帰ってきたという思いが、このような形で裏切られ、多少の憤りはありましたが、結局は、もう開業する以外にないな、ということに気持ちを切り替えました。

ちょうどその頃、私と一緒に泉崎の病院に入った先生が二人おられました。一人は心臓外科医で、もう一人は産婦人科医でした。三人とも、いつまでもそこでくすぶっているわけにいきませんから、それぞれ開業する場所を探し始めました。

戦後二十数年が経った沖縄の中心都市とは申せ、那覇市はまだ復興途上にありました。都市計画も道半ばというところで、多くの家屋は粗末な造りですし、道路も未舗装の状態でした。我々三人は約三ヵ月間、各々クリニック開設のための土地探しに奔走しました。

候補地数ヵ所の中、市内中心部に程近く、琉球大学保健学部、中央保健所、県立那覇病院等の公的医療機関、さらには市民会館、郵便局、与儀公園などに隣接した、理想の土地を確保することができました。お二方も、それぞれ適当な場所を選定されて、松川と牧港に施設の建設を始めました。

私も早速、施設の設計を始め、手狭ながらも四階建てのクリニック建設に着工いたしました。一九七三(昭和四八)年八月に竣工し、院名を「沖縄中央脳神経外科」、標榜科目を脳神経外科・麻酔科として、九月一日、念願の創立を果たしました。

そのとき、私は三七歳になっていました。宮崎県立日南病院での弓削先生の教えがあったればこそ、クリニックの経営に臨めたのだろうと、今でも感謝をいたしております。

 
※本記事は、2019年12月刊行の書籍『 ひたすら病める人びとのために 上巻』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。