7 宮崎県立日南病院での医療活動

宮崎県立日南病院の脳神経外科開設のために出向大学の医局で日進月歩の医療技術を習得しつつ、二人の子供の養育で多忙な毎日を送っているある日、医局長より出張依頼が舞い込みました。

宮崎県立日南病院の弓削(ゆげ)院長(前久留米大学第一外科助教授)より、同院が脳神経外科を新設するに当たり責任者を派遣してほしいとの依頼があり、私に白羽の矢が立ったというわけです。新規に診療体制を整える六ヵ月間の予定で承諾し、単身赴任しました。

久留米大学第一外科の元同僚だった先生方のご協力をいただきながら、着々と脳神経外科の診療体制を整え、運営面でも軌道に乗り、約束の半年を迎え再び医局へ帰ろうと打診しましたが、後任がまだ決定してないため、あと半年勤めてほしいという返信が来ました。

このようなことはめったにありませんが、しようがないので宮崎に家族を呼び寄せることにしました。

脳神経外科手術はまだ発展途上だったこの日南病院では、生まれつき頭が小さい狭頭症の人や、逆に異常に大きい水頭症の人、さらに脊椎奇形(破裂)といった、希少な手術を数例体験することができました。

また医学の進歩とともに、今でこそCTスキャンやMRI、MRA検査などで患者さんに苦痛を与えることなく治療が行われていますが、当時は過渡期で、その治療は大変なものでした。

頭部の血管検査は、直接、頸動脈に針を刺して注射器で造影剤を二〇ccほど流し込み、ちょうど頭の中に流れた頃合いを見計らって、その瞬間をレントゲン技師に合図し、その流れを連続撮影するという方法でした。

一方、パーキンソン症候群などの治療では、前述した定位的脳手術を行います。頭の中には脳室という一つの部屋があり、そこは髄液を作る場所です。定位的脳手術ではその脳室の撮影、これを気脳撮影といいますが、脳室内のレントゲン撮影のことで、それが欠かせませんでした。

この撮影結果を見て、ニードル(針)を頭の中に入れて、一部分を破壊するという治療法が定位的脳手術でした。気脳撮影には、脳室の中がからっぽになっている必要がありました。

今では考えられないことですが、脊椎(せきつい)に針を刺し、脳脊髄液を抜き取り、代わりに同量の空気を注入していきます。それを二〇回ほど繰り返しますと、髄液がほとんどなくなって空気でいっぱいになりますから、その状態になってようやくレントゲンが撮れて、手術が行えるわけです。

しかしながら、いずれの検査においても患者さんに与える苦痛は大きいもので、治療のための必要条件とはいえ、術者にとってもその都度「ごめんなさい」という気持ちでいっぱいでした。

今日では医学の発展も素晴らしいものがありますが、MRIも、MRAやCTスキャン、ガンマナイフなど医療機器の目ざましい進歩を遂げています。術者は、患者さんとそのご家族ともどもに、リスクの少ない検査治療を勧めることができるようになっています。こうした機器は、今後ますます発展していくことが期待されます。

 

沖縄への帰郷を決意する

その後も再三再四、医局あてに帰局の要請をしましたが、医局員に適当な人材がいないといった理由で希望がかなえられずにいるうちに、瞬く間に三年が過ぎていきました。

ようやくのこと、後任が決定したとの連絡がありましたが、その頃には、我が身がまるで将棋の駒のように扱われていることに憤りを覚え、当方から退局を申し出て、故郷沖縄に帰ることを決意していました。

私は、医局に籍を置きながらも、幾つかの地方病院に出向することや、与論島のように無医地区に派遣されるというような時期のほうが多かったように思えます。医療の現場、それも医師がほとんどいないような地域で医療活動をしたことで、臨床と基礎医学の研究とを両立できる医局には魅力を感じましたが、次第に、現場主義といいますか、自分の目で見てみるということの大切さが身に染み込んでいったのではないかと思います。

医局を辞めて沖縄に帰る決心をしましたが、県立日南病院に奉職中は、大学では味わうことのできない貴重な幾つもの体験をすることができました。

当地は旧飫肥(おび)藩に属し、規模は小さいながらも近隣に立派なお城が構築され、日本一を誇る杉林の山脈の一角に桜の名所竹公園があり、油津(あぶらつ)港の近くには風光明媚な梅ヶ浜があるというように、素晴らしい環境に恵まれています。

南国独特の温暖な地域で育まれた、素朴で人情味豊かな気質の人々が多く、病院内も各セクションを超えて相和し、十分なコミュニケーションが構築され、常に明るい雰囲気の中で医療に従事できたことは幸いでした。

 

弓削院長のこと

ご多忙な日常診療業務の中で、弓削(ゆげ)院長の経営に関する素晴らしい理念とその手法について、多くのことを学ばせていただきました。

沖縄に帰ってからも、医療資源の乏しい中でゼロからの出発で、その後も紆余曲折(うよきょくせつ)がありましたが、その都度、日南病院を立派に切り盛りされていた敏腕院長の方策をお手本にして、艱難辛苦(かんなんしんく)を乗り越えることができ今日に至っています。

8 私の病院経営に関する考え方

コミュニケーションが第一

 

前節で弓削院長のことに少し触れましたが、関連したことですので、沖縄に帰る前の私の病院経営に関する、いや、今の組織運営全般に関する考え方をご披露しておこうと思います。

諸々の技術、文化、文明の目覚ましい発展とともに、人間の価値観にも大きな変化が表れました。特にここ数年来、いわゆるハラスメントの問題が各メディアを介して取り沙汰(ざた)されていますが、その報に触れるたびに、私は暗たんたる気持ちになります。

職場や家庭内では、大人も子供もコンピューター、スマホなどを介した対人関係が主となり、実際に喜怒哀楽といった感情を表現する手段が、年々歳歳欠如してきているように思えて仕方がありません。

人間関係がおろそかとなり、日本人が持っていた美しい流れが今や氷と化しつつあります。これは、取りも直さず生きたコミュニケーション不足以外の何ものでもありません

弓削院長の院内におけるコミュニケーションの第一歩は、まず声かけでした。

若い職員には「先輩に一日も早く追いつくように、しっかり頑張れヨ」と頭を軽く撫でてあげていました。また、ある程度経験を積んだ中間層には、環境整備や省エネについて「チェックを十分に頼むヨ」とポンと肩を叩き年季の入ったベテラン職員に対しては、「いつもご苦労さん、健康には十分気をつけて、もうひと頑張りを」といいながら、そっと腰をさすってあげていました。

これこそ、職員と経営者との間の円滑な人間関係の基本だと教えていただきました。殺伐とした昨今、我が身の行為を棚に上げ、他を誹謗(ひぼう)中傷する風潮の中でも、私は恩師の教えを教訓として活かしてまいりたいと考えています。

 

理念の大切さ

病院を含め企業発展のための最大の課題は、経営者がしっかりとした理念を掲げているか、そしてその理念に基づいて、すべての職員や社員が一致団結し、目標達成のために邁進(まいしん)しているかということだと思っています。

理念だけが立派でも、職員や社員がそれを自身の血肉にすることもなく、自分勝手な考え方で行動していては、目標達成など考えられません。

経営者は、その理念に向かって進むことの意義を、事あるごとに職員や社員に語りかけ、その理念を世の中に伝えるために活動していくことが目標であり、その目標を達成するために企業は売り上げを伸ばし、利益を生み、社会に貢献できるようにする必要があることを理解し、行動に移せるようにしていく必要があります。

組織の中にあっては、たとえ個人的に自らの考え方や方針にそぐわないことがあっても、一度幹部が議論を尽くし、経営最高責任者の最終的な決定事項については、それを尊重し勇往邁進(ゆうおうまいしん)することが大切です。

 

弓削院長の下での三年間

組織を構成する個々の職員と、意思の疎通を図ること。つまり、十分なコミュニケーションこそが基本であることを教わりました。

他方、診療の余暇には、上下関係なくすべて自由な立場でスポーツに興じ、時には山のせせらぎの辺りでキャンプを楽しみ、また、ある晴れた日には舟を借りて皆と連れ立って沖釣りへ出かけ、年の瀬の全職員の集いは、はるばる別府温泉で行うというように、弓削院長は、和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気の中で理想の人間づくりを目指し、そのお姿で数々の教訓を私に教えてくださいました。本当に得ることの多い三年間でした。

日南病院での外来業務や、病棟入院患者の管理の傍ら、学会発表のための資料収集や整理のために、日常勤務の疲れを厭わず遅くまで手伝ってくれた看護婦たちとも、いよいよお別れの日が訪れました。

中でも、看護婦のT子さんは、看護学校の裏口まで馳(は)せ参じてくれて、感極まって涙を流し、別れを惜しんでいた姿が、つい昨日のことのように思い出されます。近い将来、きっと、再会できる日を約束して、私は家族を連れて油津駅から旅立ちました。

いざ、沖縄へ!