北からの黒船、ロシアの艦隊は自艇の危険を顧みず津波の引き波で波間に漂い助けを求める多くの下田市民を救助した。

自艇も大きく損傷し、その修理のため石廊崎を回って西伊豆の戸田に回航している時に強風で駿河湾の奥深く流されて富士郡宮島沖で沈没した。しかし、望郷の念強く戸田に集められた船大工が大型の帆船を建造してロシアに送り出したと言う。

確かに戸田の海を楽しんでいた当時でも帆船・ディアナ号を進水させた斜路の跡、社寺、石碑を見た記憶が残っている。

日本にはこのような海に関わる美談が多い。串本沖で台風によって遭難、多くのトルコ人将兵が死んだが漁民が身を挺して救助したエル・トウールル号遭難事件もそうである。これには後年恩返しの美談が残っている。

一九八五年、イラン・イラク戦争でフセイン大統領が航空機の飛行停止令を発した際、外国人の殆どは自国が飛ばした航空機で脱出を図っていったがその中で遠路の日本人だけが取り残された。

飛行停止まで時間が無い極限の中、唯一航空機を飛ばして日本人を助け出してくれたのがトルコ航空であった。決起した動機は約百年前のエル・トウールル号の恩を忘れないというトルコ国民の思いであったと言う。串本には石碑が立っておりその美談はトルコの教科書にも載っているとの事だ。

さて、半島の先に進もう。アキレスで西伊豆の美しい浜や磯を楽しみ、その先に行けば行くほど美しくまた、荒々しくなる伊豆の海に魅せられて私は更に突端に近い未知の海を求める想いが強くなった。そして、ごく自然に西からその突端の石廊崎に達する事が目標となった。

私はその目標にチャレンジするため、当時でも珍しいトレーラーで牽引するモーターボートを手に入れた。シーガルⅠ号である。トレーラーで東名高速を抜け、沼津で降りて土肥から松崎へ、そして雲見漁港にまで達するようになり西伊豆走破の距離は飛躍的に伸びた。

その雲見の右には海から突き出た岩礁の上に聳え立つ富士の姿が実に美しく見えたが、湾の左に回ると波勝崎に連なる断崖絶壁が屏風のように立ち上がり、そこに打ち寄せる波の大きさに恐れを覚えた。石廊崎は更に遠い彼方にある。

私は石廊崎を西から船で交わす恐ろしさと難しさを知った。