海と私 <西伊豆>

愛艇シーガルV号で伊豆半島、そして伊豆七島の島々を走り回るまでには艇名から分かるように歴史があった。

最初の船はアキレスが発売発表をした時に真っ先に青山の本社に買いに行って手に入れたインフレータブルボート(ゴムボート)である。ゴムボートとは言っても組み立て時、板子を底に敷き空気を張るとしっかりした艇に化けて、ヤマハ7HPの船外機を搭載し猛烈なスピードで走り回る。

私は木月の独身寮で組み上がったアキレスをルーフラックに引き上げて、東名高速を走り沼津で下りる週末が続くようになった。

西伊豆の幾多の漁師町を過ぎる辺りから、海岸は海に迫る岬の突端を上下するようになる。高い岬の崖の上から見下ろすと、左から細長い陸地が伸び静かな湾を形成している海岸が見えた。大瀬崎である。

湾の中は鏡のように穏やかで透明度も高く、松が茂る緑の半島の上には富士山が聳え立っていた。また、南から流れ上がる海は青く、湾の外側の岩場も余り人が入っていない荒々しい風情を保っていた。

大瀬崎から先は小さな漁港と海に落ち込んだ絶好の岩場が続き、ここぞと思うスポットにアキレスを降ろして西伊豆の海を楽しむ日が多くなった。半島の地図でその先に戸田と言う大瀬崎に良く似た地形の湾がある事を知った私はすぐに戸田を訪れた。

戸田も美しい。行って見て驚いた。大瀬崎と全く類似形なのだ。日本近海に近づいた黒潮の偏流が遠州灘から駿河湾を回り込み、また冬の強い北西風が西伊豆の海岸を削り取って岬の内側の潮の淀みに堆積させ、悠久の年月を経て幾つもの砂嘴(さし)を形成させたのであろう。まさに自然の成せる匠の技である。

間もなく八十歳を迎える私には不思議に偶然・奇遇が多い。ちょうど戸田について書いている頃、TV局が戸田の特集を放映する事を知って懐かしくそれを観た。

一八五四年、ロシアの日本開港交渉の使命を受けたプチャーチンは幕府の命により下田で沙汰を待っていたが安政の東海地震による大津波に遭遇した。