9月28日(月)

退院

一旦退院した。

病院食で少し痩せたが、血色も良く、元気である。

良子は、私たち父娘が「余命1年」の確率が大であると告げられたこと以外、全体を正確に理解していた。

「胃にがんがあれば手術は無意味、1年の命と言われたんだぞ」

「印環細胞というのは大腸にあることは稀なことらしい。皆無ではないが滅多にないそうや。スキルス胃がんが発生源で、腸は転移先だと思う、それであれば、もう、手術は無駄だ、そう言われたんや。あのときの先生の顔は、胃がんは必ずあるという顔やった」

「25日の夜、お前に内緒で実は病院へ行った。9時15分まで先生と話せなかった。デイルームの明かりも消された。それから面談室へ行って先生の話を聞いた。胃がんは見当たらなかったと聞いて、帰りのエレベーターの中でバンザイしたぞ」

「それで26日に来たときバンザイしたんやね。なにしとるんか思うた」

「長生きしてくれや。頼むわ」

「そんなこと言われたって、ワカラン」

 そして、

「私は、やりたいことは全部やったから、いつでも、十分です、そう先生に言うた」

先生は笑っていたそうである。

えらい達観したことを言ったものである。

私に対しても、「思い残すことはない」と良子は言う。

あっさり言われても、こっちは困る。

「食い逃げするな」と言った。

良子が26日の産経新聞から、こんな記事を見付けた。

「こんな記事が出ている」と笑いながら見せた。

不安な表情はまったくなかった。この記事の病院で治療を受けているのだが。


内視鏡処置で死亡事故 横浜の病院「不適切対応あった」([産経新聞]2015年9月26日)

横浜市立みなと赤十字病院(横浜市中区)は25日、救急搬送された70代の男性患者が内視鏡を用いた処置を受けたあとに容体が悪化、その後の対応が遅れたことなどで心肺停止となり、死亡につながったと明らかにした。四宮謙一院長は「患者管理に不適切な対応があった。心からお詫び申し上げる」と謝罪した。

同院によると、男性は昨年12月17日に腹痛などを訴えて緊急搬送され、総胆管結石による胆管炎と診断された。

同日、内視鏡を用いた切開処置を受けたが、処置後の18日朝に失血性ショックとなり、切開箇所の止血を行う再処置中に一時心肺が停止。昏睡(こんすい)状態となって今年2月20日に敗血症・多臓器不全で死亡した。

四宮院長は25日の記者会見で、「手技(技術的)に問題はなかった」としたが、下血時に緊急輸血をせず、再処置中に男性の血液中の酸素濃度が低下する状態悪化にも気付かないなど、対応が遅れたとした。

外部有識者などからなる事故調査委員会を立ち上げた同病院は8月31日、事故経緯について同委員会から報告を受け、遺族に謝罪。今月17日に遺族との間で和解が成立したという。

内視鏡手術にするのか開腹手術にするか、10月7日に決めなければならない。

成功が確かなら内視鏡が良いのだろう。

良子には既に胆嚢摘出を内視鏡で行った経験がある(3・11大震災のとき、病院のベッドの上にあった。手術は確か3・
11の2日ほど前だった。点滴液の支柱が動くのを必死で押さえたと聞いた。手術中ドンピシャリの可能性もあった訳で、そのような人も、当然いたであろう)。

病院の最後の夜は中秋の名月、

退院した夜は、“スーパームーン” だった。

共に、美しい月が見えた。



9月30日(水)

永代神楽祭
 
良子が落ち着いて平然としているのに驚いている。

昨晩、大阪の姉から良子に電話があった。

「がんはできてしもうたんやから、しようないです。はは」

なんて言っている。姉は姉で、

「悪いとこは切って棄て、ええとこつないだら終わりや。何でもあらへん」

なんて言ったらしい。実際に左の乳房を切って棄て、ぴんぴんしている姉である。

私が同じ立場でも、似たような会話をしたような気がする。

どうもうちの家族は、生に恬淡なところがある。

次兄が、もう30年も前と記憶するが、田舎の医者にがんを告げられた。

がんだという医者に、兄はにこにこしながら、「ああ、そうですか」と答えたそうである。医者はともかく看護師たちは、「このオッサン、ぼけとるんちゃうか、いう顔しとった」と、兄はそれを観察していたらしく、笑いながら言った。

十分に生きた、という思いが、私の想像できぬ深さで兄にはあるような気がする。そういう人生だった。

兄は姉の強力な勧めで姉の紹介する大阪の病院へ移った。再検査の結果がんでなかった。90歳の今も健在である。

今日は良子を病院に下ろし、その足で靖国神社へ向かった。

長兄の「永代神楽祭」があって、参列した。

9月30日に所縁のある戦死者の遺族が寄っている。9月30日は、長兄の戦死公報に記された戦死の日である。実際には9月
30日の50日も前に、部隊は「玉砕」していた。

奇遇があった。

私のあとで署名した方が私とまったく同じ名前で、先に記入した私は知る由もなかったのであるが、その人は私に話し掛けて来た。私より一回りはお若いと見えた。

父の戸籍簿の命日が9月30日になっている、と彼は言った。
場所も、兄と同じ大宮島(グアム)であった。

グアムの実質壊滅は8月10日で、日本軍の組織的抵抗が完全に終結したのが11日であったと記録されている。

その方の父上も、戦死公報に記された9月30日を「命日」とされたのであろう。グアムの部隊は全員、9月30日の戦死として公報したと考えられる。いい加減、というか、分からないのである。しかしおそらく、9月30日まで生存していた可能性はない。

兄の「命日」を、父母は8月10日とした。過去帳に、「戦死公報ニヨレバ九月三十日戦死シタトアルガ其後帰還戦友ノ話ニヨリ八月十日ノ命日トス」と記されている。

私がなぜ9月30日を「永代神楽祭」に設営したのかというと、過去帳に記された戦死公報記載日付であること、それに8月は15日には必ず靖国へ参るので、そのようにした。季節のこともあった。

今日もさわやかな最高の日和であった。

二人の巫女による供物の奉ほう奠てん、お神楽の舞、そして神職により延々と戦死者(ミコト)の名が詠み上げられる。カトリック教会の「連願」に通じるところがある。名前が連綿と詠み上げられるだけである。それが祈りになっている。

集まったのは40人ほどだったと思う。

単純な祭儀であるが、50分ほどだった。しかし30分にしか感じなかった。

検査を終えた良子を迎えに病院へ寄った。

帰りに近所の町医者「T医院」へ飛び込んで、“丸山ワクチン” の治験を頼み、引き受けて頂いた。初めて訪ねた医院であった。

丸山ワクチンについては、これからも何度も書くことになるであろう。ずっと気になっている “ワクチン” である。
 
40年余り前と思うが、今東光がテレビで、「がんをやっつける必要はない。一緒に生きればいいんだ」と言っていた。

東光さんはこのワクチンを使っており、79歳まで元気であった。

それ以来、丸山ワクチンの名は、ずっと私の記憶に残っていた。

丸山ワクチンの開発者・丸山千里氏のご長男が、株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントの社長を務めた丸山茂雄氏である。丸山茂雄氏ご本人が66歳で食道がん発覚、Ⅳ期、余命4カ月を告げられた。それが現在74歳であると思えるが、健在である。

丸山さんがソニー本体の社長になっていれば、ソニーがアップルになっていたかもしれない。

※本記事は、2019年3月刊行の書籍『良子という女』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。