こんな初期の段階で競争に負けるようなことがあってはならない

入隊十日後に、幹部候補生有資格者は皆志願をし、この後は毎晩点呼前一時間学科の勉強の時間が設けられた。

軍隊での学科の内容について杉井は中学校の軍事教練でほんの基礎的なことを習得しているだけであったが、周りの者も、入営前に地方の青年団で多少の教育を受けてきている程度と思われた。

最初の学科の時間には、神尾班長自らがやってきた。神尾が、
「軍人勅諭が言える者は挙手しろ」
と言うと、ほとんどの者が手を上げた。杉井も五ヶ条だけは言えるので、同時に手を上げた。

神尾が杉井の隣の石山を指名すると、石山は、「我が国の軍隊は世々天皇の統率し給うところにぞある……」と勅諭の前文を最後までよどみなく答えた。他にも前文を暗記している者は十人ほどいた。

彼らは勅諭だけでなく、砲兵操典や軍隊内務令の主なところも暗記していた。これを見て杉井は焦った。

静商の同級生の片桐が予習など意味がないと言っているのを聞いて、確かに学習は学校においてのみすれば良いのかも知れないと思ったこともあったが、今回は、予習をしなかったおかげで多大なハンディを負ったことを後悔した。

杉井謙造商店とは異なる競争社会に折角身を置いたのに、こんな初期の段階で競争に負けるようなことがあってはならないという意識が、杉井の中で強く芽生えた。

その後、寝る前の学科の時間は、杉井にとって最も気合いの入る時間になった。しかし、勉強する時間は一時間だけで、皆同じように勉強しているのであるから、これでは差が縮まらない。

いろいろ考えた結果、杉井は、消灯後便所に行くことにした。人目につかずにこっそり勉強するためには、自分の行動範囲でここが唯一の安全地帯であると思われた。

以後、杉井は毎夜睡眠時間を一時間削り、寒くて臭くて薄暗い便所の中で過ごすことになった。