私は独身時代、川崎の法政大学グラウンド横にある商社の独身寮・木月寮に長居していたが、寮の飲み仲間や後輩を連れてエンジン付きアキレスのゴムボートを西伊豆の戸田で組み立て進水させた事がある。

それが伊豆の海への思い入れの契機となった。その時の仲間が後の海の仲間「シーガル」のメンバーとなり、175HP二基掛けのシーガルV号に至るまでの二十年間、伊豆半島そして伊豆の島々に艇を走らせ続けてきた。

陸に上がって既に五十年経つが伊豆の島々はまさに幾多の海との闘いと仲間たちの思い出が詰まった世界であった。島はこの半世紀で大きく変わった。

ゴムボートでたどり着いた頃は現在のフェリー発着場は第一漁港であって、島の南西側には第二漁港があり、左右に広がる岩場は夏の海の遊び場として開放されていた。従ってそこは我々海の仲間のマナーを始め操船技術、潜り、磯遊びのトレーニングの格好の場となっていた。

しかしながら後のバブル期には海洋レジャーブームが起こり、島の住民も将来の生き残りのため外部からの資金を入れて今のXIVクラブの建設に踏み切った。

その頃、私は米国の企業を巻き込んだ三つのロシアプロジェクトを推進していた事から米国出張が多く、取引先の会社に頼まれて帰途シアトルの海洋エンジニアリング会社・リードミドルトンに立ち寄りグルーラミネイテッド・フローティングマリーナシステム(継ぎ目の無いポンツーン)を日本に導入した。

その一つが東京湾マリーナに続き大成建設経由、第二漁港に建設されたXIVマリーナのポンツーンとなった海に関わる縁がある。このハーバーも東京から最も早く艇で乗りつける事のできる懐かしい舫い場所の一つであった。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『海の道・海流』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。