実は瀧廉太郎がこの演奏会を聴きに来ていた!

この時、瀧廉太郎が母校のこの演奏会を聴きに来ていたことが小林礼(環と同級)のピアノ演奏評に関連して書かれている。瀧はドイツ留学中親友の鈴木毅一(一八七七~一九二六)に送った書簡の中で教え子小林礼のピアノの進渉について尋ねていた。(46)

瀧はドイツで健康を損ねこの演奏会一ヶ月前に帰国し、東京の瀧大吉(一八六一~一九○二)の家に身を寄せていたが、近々葉山に転地療養に向う手筈であった。志なかばに帰国した瀧は、教え子たちの演奏をどのょうな思いをもって聴いたことであろう。

翌明治三十六年六月二十九日、彼は二十四歳の若さで病没した。大分市万寿寺の墓所には「鳴呼天才音楽家瀧廉太郎君之碑」が建っている。

明治三十六年三月七日(土)に東京音楽学校学友会演奏会が奏楽堂で催され、環はウェーバーの歌劇「オベロン」からアリア一曲を歌う。「帝国文学」の評は「前田、小林、柴田、金沢、四氏の特技を紹介したるに過ぎざりき」としながらも特に環については次のように記している。(47)

****************************************

此日、柴田嬢の独唱、オベロン中のアリア、カバチナはロマンチックの鼻祖たるウェーバーの特趣を発揮して幽趣掬すべきものあり。之を昨年末の某嬢の演唱に比して其老巧の点に於ては或は彼に一歩を譲ることあるも、其音量に於てコロラチュールに於て独得の技量を示し、独語の発音にもさしたる批難なかりき。

****************************************

明治三十六年七月二十三日(木)午後六時半より奏楽堂で、東京音楽学校同年卒業生と東京帝国大学文科大学の学生有志によりグルックの歌劇《オルフォイス》が上演された。卒業生のなかにソプラノのエウリディーチェ役が得られないため、本科二年生であった柴田環が抜擢され、百合姫として出演した。

この主役出演によって環の評価は学内外ともに高まった。《オルフォイス》の企画は、日本人の手になるオペラ上演の先駆けとしてわが国オペラ史上特筆すべき出来事であった。

(44) 橘糸重への島崎藤村(一八七二~一九四三)の恋情は、詩集『落梅集』等ともに知られている。

(45) 東京音楽学校秋季演奏会(音楽之友、第三巻第二号)明治三十五年十二月、三浦俊三郎『本邦洋楽変遷史』四二八ページ(日東書院昭和六年刊)

(46) 前掲書注9 二一○ページ

(47) 「楽界の半歳」(帝国文学第九巻七号)明治三十六年七月 注3秋山『日本洋楽百年史』一二六ページ

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。