第二次オイルショック後の展開

突然発注がなくなる…「予算がないので無理です」

一九七九(昭和五十四)年ごろ、イランで革命が起こり、第二次オイルショックと呼ばれた石油危機の影響が出始めました。

TOTOも設備投資を控えるようになり、それまで「よその仕事はするな」と言われていたのに、発注はパタッと止まってしまいました。何度足を運んでも仕事を出してくれません。

私は「よその仕事は断って、TOTOだけの仕事でやってきました。今更どこに行けというのですか」と工務課や資材課に頭を下げお願いしましたが、「予算がないので無理です」と断られてしまいました。

鉄工業界は、景気が悪くなる時は一番早く影響を受け、よくなる時には一番後からというのが実態です。

仕事を探していたところ、ある人の紹介で、セメント二次製品を作っている工場の配管工事を依頼されました。九州電力などの電力会社に納めるコンクリート電柱や、基礎工事に使用するコンクリートパイルなどの製品を作っている会社でした。

配管工事は発電所で鍛えられていたので慣れたものです。クレーンガーターと言われる、天井クレーンの走行レールの架台になる鉄骨部分に通す配管です。一人がやっと寝そべって入れるところにパイプを通すのです。

地上二十メートルほどの高さだったと思います。私はそこでパイプの溶接をしていました。

汗で手も体も濡れてきます。狭いところですので、溶接のホルダーが手に触れてしまいました。その瞬間、体に電気が流れ、ガーンと感電のショックが体に走り、「ワーッ」と叫んだつもりでしたが、ショックで声が出ません。

「死ぬ!」と思ったその瞬間、ホルダーが手から離れ、電気ショックが止まりました。

「助かった!」と思ったとたん、安堵から全身の血が引いていくような脱力感でぼう然としていました。

弟たちは下のほうで作業をしていましたが、気づきませんでした。 発電所の工事でも電気溶接の感電で亡くなった方がいましたので、あの一瞬ホル ダーが手から離れたのが不思議です。もう少し時間が経っていれば、私の体から煙が出て、そのまま火葬になっていたかもしれません。

※本記事は、2017年11月刊行の書籍『霧中の岐路でチャンスをつかめ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。