古い木製扉が閉まるバタンという鈍い音が応接室内に響いたとき、この部屋の中に田口さんと僕の二人だけとなったことを再認識した。少しの時間、シーンとしたので、僕は何か話題を振らなければと考えたのだが、ほぼ初対面で親くらいの年が離れた人間に、どう口を利いていいかわからなかった。

そうこう考えていると「どんどん食べてええよ」と和三盆を薦めてくれる田口さん。僕は若者っぽく「あざっす」と言って応じた。

「しかし、あの頃の駿一くんがこんな大きなってるとは、何遍考えても感動するわ。生まれた時は、ほんまに、こーんな小ちゃかってんから」

彼女は両手で小型犬ほどの大きさの楕円をつくり、赤ん坊だった頃の僕のサイズ感を伝えた。

「ちょっと大きい子犬くらいスね」

「ほんま、それ。いやしかし、ごっつい大きなったなぁ」

紅茶を一口すすってから、机の天板に目を落とした彼女は「お父さんから連絡は?」と試験するように僕に尋ねた。僕は「いえ、全く」と返した。「そう」と彼女は小さい声で言った。天板から目線を上げる田口さんが口を開く。

「駿一くんなぁ、きよちゃんには、ほんま感謝せなあかんねんでぇ」

「感謝……ですか?」

「ほんま、きよちゃんはね、駿一くんのために人生捧げて精一杯生きてきた人やから」

「僕のために……、ですか?」

「せや。私はな、駿一くんが生まれる前から、きよちゃんの事を知ってるんやけどな。あんたも、もういい年齢やから、気を遣わんと言うんやけど、お父さんはほんまにめちゃくちゃな人間でなぁ」

田口さんの表情がみるみる八の字困り顔に変化した。「オトンのことは、オカンから、大体聞いてます」と僕が言うと「さよか」と彼女は優しく笑った。

「でも、オカン以外の人からオトンのこと聞くの新鮮です。そんな話聞ける親戚もいないですし」

「せやなぁ、そういう意味では私が一番、きよちゃんの若かりし頃を知ってる貴重な人物なんかもなぁ」と今度はガハハと豪快に笑った。

「オトン、相当、ヤバかったんスか?」

「うん。なかなかヤバかった」と彼女はプッと笑った。ガハハとか、プッとか、本当に忙しい人だなと思った。

「お父さんはね、酒はめちゃくちゃ飲むし、ギャンブルはウマもボートもパチンコもやるし、そりゃ、女遊びも派手でな。飲む打つ買うの三拍子そろった昭和の芸人みたいな男の人やったんよ」

「飲む、打つ、買う」と僕は一定のリズムで復唱した。

「やから、きよちゃん、苦労したん。ほんまに苦労したんよ。絶対秘密にしてよ?」

「え? あ、はい」

「実はね。お父さんね、きよちゃんが妊娠したのをわかった時にさ、おろせって言うたん」

僕は一瞬言葉を咀嚼できなくて「おろす?」と鸚鵡返しをした。

「中絶ってことよ。最低やろ? お父さん側の親類も、経済的な理由で出産を反対してたみたいで。やからほんま申し訳ないけど、私、あんたのお父さんのこと大嫌いでさ」

今から十七年前の自分のデッド・オア・アライブの話だったのだけれども、僕は自分事としてのイメージがわかず他人事のように相槌をうった。

「夫婦の話し合いの場に私も同席したことがあんねんけどな、あんなに怒ってキレたきよちゃん、初めて見たなぁ。いっつも、朗らかに笑ってるやん? きよちゃんて。でも、あの時は、鬼みたいやったわ。怒鳴り散らして。お父さんもきよちゃんの迫力に圧倒されてたもん」

「オカン、そんなキレたんスね」

「そうそう。私がこの子を育てる! この子を立派に育てる! だから生むねんや! って、繰り返し繰り返し泣きながら叫んでた。きよちゃんってさ、両親も他界してるし、付き合いしてる親戚もいてなかったから、たった一人で闘ってたんよ。この子を守るのは私しかいてないって。お腹さすって、いっつも言うてたもん」

気持ちが入り熱弁をふるっていた彼女は冷静さを取り戻して「あ、こんなこと、当事者の息子にする話やないね、ごめんねぇ」と言って、数秒前の自分のガサツさを悔いて僕の目をじっと見つめた。

「あ、大丈夫っスよ」

「駿一くんにはね、きよちゃんのこと大切にして欲しいねん。息子に対する想いって凄いねん。凄すぎるねん。ずっと傍で見てきた私は感じてたから。それをあんたにわかって欲しくて。きよちゃんがおったからこそ、あんたがこの世に生まれることができたってわかって欲しくて……」

「田口さん?」

「ん?」

「僕、嬉しいッスよ。自分の知らないオカンのことを知れて。良かったら、もっと教えてくださいよ。僕の知らないオカンの話。オカンが戻ってこうへんうちに」と僕は悪戯な表情をした。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『尼崎ストロベリー』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。